第二期序/各章解説


 といっても、第二期は明確な章立ての構想のものとに作られたものではなく、見ていただけばわかりますが、書き溜めたものの年代順の陳列になっています。
 「今西錦司の世界」の10章を書き上げてから以降の、作品紹介といった形になります。

 まず、「第一期」の構想は、今西錦司さんの業績の紹介と、現行の進化論の矛盾点を紹介するものでした。
 この時の、筆者のモチベーションとしては、生き物とはもっと、暖かく、優しいものだ!自然選択、なべて「生存競争」だけでは、進化は説明できない!という思いがありました。

 「宇宙線や化学物質などで、偶然にDNAに変化をきたし、(当初潜在的ではあってもやがて)表現型が変化したものが、自然選択のふるいにかけられ、適応度が高い(より子孫を多く残すもの;
ん、当たり前か)ものが生き残り、子孫を残しその形質を次世代に伝える」

 この後半の、適応度が高いものが生き残るとする自然選択は、科学の理論にならない。

 しかし、書き進めているうちに、文章前半、進化の「偶然論」こそに、なんともいえない暗い闇を感じるようになりました。現在の進化論者で「偶然」という言葉を使わないにしろ、生き物側に進化の方途を選択していることを認めることはないと思います。生物体の変化は外的な要因であり、それが生き残るのも外的な篩(ふるい)を通ったものという思考は捨てないと思います。何かの方向、「何々するため」にむけて、進化をすることは目的論になります。こうした目的論と科学は相容れないものでしょうか。

 第二期では、主に「目的論」にスポットをあてています。

 目的論は、現在の科学的思考の枠組みからは、はずされています。
 専門の世界で、「チョウの翅は、飛ぶ為にある」というと、「そうゆう目的論的な言い方は避けたほうがいい」とアドバイスをいただきます(ところが多くの子孫を残すものが適応しているというのも目的論と思うのですが)。
 私たち人類の知性は、ですからいまだに「なぜ、重力があるのか」「なぜ、宇宙空間で物を放つとその方向へどこまでも進んで行くのか(慣性の法則)」という問いに、なんら答えることが出来ていないのです。科学の言葉では。
 「重力は、どのように働いているのか」「慣性の法則から、どのようなことが導けるか」が科学が問いをうけもつ範囲になっています。

 「なぜ生物は進化するか」という問いにいたっては、人類が答えを出すためにはまだまだ時間がかかりそうです。。
 すると、では「どのように進化するか」という問いには答えられたのか、ということを聞かれそうです。いろいろな進化に関わる遺伝的事象の枚挙は増えてきていますが、思うに進化理論に対しての人類の知性(現実と相応した)は、おそらく、「生物は進化する」あるいは「種は分岐してきた」ということを発見した時点で止まっています。

 なぜかといえば、知識者がダーウィニズムの思考枠で満足してしまったからに他なりません。それは、言葉を変えれば唯物論的世界観に満足してるからにすぎません。唯物論を概説する本には、唯物論の支えは進化論にある。と書かれています。しかし進化論は、唯物論によって支えられているので、これではお互いに馴れ合いの産物です。

 「生物は進化する」あるいは「種は分岐してきた」は、事実です。そして、これが生物の、あるいは世界のありのままの姿です。進化は生物の原理であって、生物種がそのままで、あり続けることはないのです。滅びるか、他種へ変わるか、分岐するか、いずれにせよ、生物種が変化してゆくことは自然選択のあるなしに関わらず、おきることなようです。自然選択という言葉は、その残った種に対して、そう呼びたければ呼べばいいでしょうが・・・これは学問とは違う言葉ですね。

 比較的新しい進化論としては断続平衡説などがありますが、これはよほど真相に近づいていまして、現象としてはこのとおりと思います。しかし、自然選択説を捨てきれなかった点、まだダーウィニズムの呪縛からは開放されていませんでした。自律的進化論に至って、自然は自己組織的に変化してゆくのではないか、流動的な生態系の流れの中で、選択によらずに変化してゆくものが生物ではないかという考えが出てきました。この説は、いくぶん数値レベルでモデル化されているのではないかと思います。ただ、この断続平行説、自律的進化論を日本語で表現したら、「種は変わる時がきたら、一斉に変わる」という有名な今西錦司の言葉そのものです。今西錦司の思想が正しく英語圏に流布されていれば、グールドもカウフマンもきっと違う仕事をしていたでしょう。今西進化論には、進化のプロセスに理論としての弱さがあります。けして非科学ではないのですが、まだ人類に蓄積している知が乏しいのだと思います。
 
 というより、知が整理されていないと思うのです。「知は力なり」とは、本当のことで、知というエネルギーにも、レベル、ポテンツ、次元の差があります。
 
 余計なことまで書きそうになるので、ここらで一つ文章をとめて、各章の解説をしておきます。
 この第二期は、ひとことでいえば、科学に
適正な目的論を!ということです。
 
 だれもがいつでも実験や検証試験によって、理論の精度を確認できることが、科学の良いところでした。
 しかし時間や国境に関わらず普遍的だから真理なのではなく、時間や空間に関わらず普遍的なものだけを科学的真理としようと決めたのです。
 デカルトやカントが決めた、物質界、現象界の運動を正確に記述するというプログラムは多大なる成功を収めました。しかし機械論では、説明のつかない分野があります。
 たとえば重力の起源、たとえば進化論です。
 機械論が成功した後、21世紀はその機械論を鳥瞰する目的論が人類の知性の発達に要請されていると思います。


1章 物理学と目的論  

 人間原理という目的論が物理学にある。これを科学ではないという意見が多い。しかし人間原理は今までの科学ではなかったが、未来の科学であると思う。今まで主観、心といわれたものも、科学の対象になる時代がくるはずだ。

2章 自然哲学:その1

 プラトン、プロティノス、パラケルススなどの自然哲学概説。

   自然哲学:その2
   (自然哲学の庵)

 この章は、別作。シェリングの自然哲学紹介といいつつ、進化論は念頭においてある。上の自然哲学1を書いた当時、サーバーの都合で、この今西錦司の世界の変更が出来なかったため、新たに作ったサイトをここに押し込んだ経緯を持つ。進化論の源流をゲーテにおく人もいるが、このころのドイツ観念論哲学者、ロマン主義者の流れの中には、自然とは神が顕現した一部であって、自律的に運動するという思想がある。ラマルクもこの思潮のあとにいるのではないだろうか(キュビエはこの両者を批判する)。

3章 神秘主義  
   (Cosmos flavor)

 
「自然哲学の庵」と並行して書かれたここも別作。まとまりのない作品集ですが、一番過激で、一番羽瀬香の考えが出ていると思う。

4章 今西自然学と観念論
 
 
上の2章を書いた後に、まとめとして書いた感想。タイトルは適切ではないかも。

5章 
今西進化論と
     シェリング自然哲学

       進化の力(1)

       進化の力(2)

 この続きはもう少し論点をまとめてから。