.物理学と目的論

 

科学によせて

 第一期、一章、「科学によせて」では科学とは何かということを考えてみました。現象をそのまま記述することではなく、感覚にかかる経験の奥にある概念をつかみ、理論や法則として体系を導くこと。この仮説を、実験により検証することをもって科学が進展してきたことを述べました。

 

 この意味で考えると、天動説は立派な科学仮説です。この仮説が信じられていたのは、当時の西洋宗教の教条が押しつけたものではなく、当時の常識に沿うものであったためです。ですから無理矢理ではなくごく自然に、自然の摂理が神の御技をたたえていたのです。自然選択による進化仮説はどうでしょうか。生物の進化が過去おきてきたことは常識となりました。人々がダーウィニズムを信じているのは、実は目的なき世界、偶然論、神なき世界、時代精神の計画なき世界観、つまり唯物論なのです。進化を認め、神を認めないとするならば、さらに、生物に精神を認めないならば、いちばん魅力的な進化論は、ダーウィニズム以外にありません。進化論において、人々が信じているものは、進化そのものと唯物論的世界観です。今まで、ダーウィニズム批判が繰り返しおこなわれてきていながら、彷徨変異や突然変異、遺伝的浮動などの偶然による変化と、自然選択とに学者が固執しているわけは、唯物論への信仰のあらわれです。唯物論が、皮相な学問世界(カントの物自体を失った現象界)の常識であるゆえに、ダーウィニズムを超えられないという構図は、キリスト教的世界で育てられた過去の人が天動説の概念から離れられないことと似ています。科学は、スコラ哲学に依拠していた時代から抜け出た反動で、わずかな健全な時代の後は、唯物論を支える僕として身をまかせているようにも見えます。

 

 しかし、ニュートンら科学祖師たちの仕事は、神そのものへの奉仕でした。「神」が「いかにして」天体の運動を司っているか。原子論的ではありましたが、唯物論では決してありませんでした。

 もし、ニュートンが進化を認め、その理論化を採り上げたら、やはり、神はいかなる法則によって生物の時間的な変異を司っているかを考えたことでしょう。当時の宗教教義と進化は矛盾しましたが、仏神の存在と進化を考えることは矛盾しません。唯物論のパラダイムが不十分であることが常識となったときは、ダーウィニズムは不要になります。バイ・チャンスの理論は、唯物論世界下での合理化(後知恵)であって、現実との整合が何一つされないまま科学のような顔をしていることに気がつくことでしょう。

 

唯物論の限界

 生物の分野で自由な論理の創造を妨げているものは、唯物論哲学とそれを補完し合うダーウィニズムです。以前も書きましたが、物理学の統合の歴史は、天動説を切って棄ててから始まります。相対性理論の形だけまねて、ダーウィニズムに諸説を統合しようとする総合説は、生物学がまだその時期にきていないことを認めるべきです。ダーウィニズムを切って棄てなければ、これからも生物学の知見は、すべて天動説のつじつまあわせの周天円の軌道に費やされてしまうようになるでしょう。

 ダーウィンは、生物が進化することを啓蒙するつとめを果たしました。まだ生物進化を認めない時代意識の革命であり、その後、地球が何十億年もの年齢をもつことが明らかになってきたのであり、事実を明らかにした面は大きいのです。しかし、生物の進化の機構については、ネオ・ダーウィニズムに至るまで真実を明らかにしているとは思えません。進化の事実を認めた時点で、もう一度明らかになっている事実を白紙にのせ、どのような要因で生物は進化するのか、合理的に考える時期がきていると思います。

 

 ダーウィニズムは、唯物論哲学のもとでは、変化を説明できる最強の論理です。しかし、感覚を超えた世界の存在が臨んだときに、不十分な説であることが明らかになるのです。それは、唯物論が現実の世界を表すには不十分だからです。デカルトは世界を、縦・横・高さの延長という物質界と精神界を分けました。「広がっているもの」と「考えるもの」を二分し、神を精神の奥におき、神があざむくことがないという信念にもとづき三次元世界を確実なものとしました。ニュートンの哲学はデカルトとは異なり、延長され充満している物質世界をデカルト座標軸のみの三次元空間に整理し、その空間の点に重力を導入し、三つの運動法則によって物体の運動を説明しました。後にカントは客観世界と信じられた三次元空間の独断から覚めましたが、ニュートン科学の確実性も信じ、その適応範囲として絶対空間と絶対時間という人間の悟性があてはめる三次元+時間の四次元世界を用意し、感覚の奥にある物自体の叡智界とに分離した世界観を構築しました。私たちが感覚によって存在を確認できる世界は、世界全体のほんの一部なのです。

 

動物機械論

 デカルトは「広がっているもの」という世界に、動物を入れました。この動物機械論により、生物はイヌからミミズまで平等に機械視されるようになります。デカルトは人間のみ考える魂がやどるというぎりぎりのところは、デカルト哲学の根幹として決してゆずらなかったでしょうが、思想の単純化によって人間も機械とみなされる考えはここからおこります。動物機械論によって、生物組織学、形態学、生理学はデカルト以前に比較してためらうことのない進歩をとげました。医学への貢献も同様です。たしかに、動物は自己の存在を疑い、考える自己を発見することから「我あり」と自己認定する個体はいないでしょう。この意味で個性をもっているといえる動物はないために、「考えるもの」に動物を入れることは確かに不的確です。さらにカント哲学を成り立たせている「物自体」を新カント主義者らが切り落としたときに、科学の分野から、近代科学の探究の情熱であった神へと向かう愛は失われたのです。日本の義務教育は、このカントから見れば亜流の思考枠を高い水準のものとしているため、学校で教わった知識だけでは、ここを超えることはできません。教育がこれだけ進んだ日本が、その割に創造的な人材を輩出できない理由は、詰め込み式などの制度が悪いわけではなく、最高のものとしている現状の教育的真理に圧倒的な限界があるからです。人間の感覚器官で経験できるもののみを、確実なものとする態度は、技術にとって長足の進歩を見せた半面、見えなくなった部分もあるのです。

 

 しかし、永年植木の剪定などをされている方や華道の達人は、木や花の気持ちがわかるともいいます。野生動物とこころを交わす人もいます。こういった生き物の気持ちを感じる感性もまた、人間の力としてもっていることを否定できません。屋根の壊れたトイをすべり台にして、すずめが順番で滑り、飛んでは繰り返す光景をみられた方がいますが、これを見て「すずめが楽しんでいるんだな」という感情がおこるのは自然なことと思います。これをすべて切り落とし、生物を「広がっているもの」としか見ないで、三次元世界内で分子レベルまで細分化したところで、生命そのものは、半面しか解明できないのです。もちろん分析科学は立派な学問です。しかし、人間によって分けられた、もう一つの生き物の半面をおもんばかり、「こころ」の領域をも見てあげながら、先端の生物科学の情報の両方を統一できる科学をこそ提唱したいのです。今西錦司が、類推を次の生物学の指針として提唱した理由も、ここにあると思われます。これは単にメルヘンではなく、唯物論哲学を超えて、精神世界の客観性へ新たな探究の目を向ける、次の時代の科学なのです。

 

人間原理

 機械論をすすめていったその後の物理学はどうでしょうか。質点に端を発した原子論的な運動論は、ガリレオ-ニュートンよりはじまり、化学の分野でもドルトンやメンデレーエフに受け継がれてゆきます。しかし古典物理学における、もう一つの柱である、ファラデー-マックスウェルによる、連続的な場の概念が登場します。「場」とは、人間の感覚に直接かからない、空間そのものがもつ性質のことで、電磁場は電磁波(や光)が 駆け巡るところです。すべての生物はこの場に満たされていながら、生物学において「場」の性質を扱った哲学は体系を組んではいません。まだ硬球の分子モデルが、飛び回っている古典的イメージが有効なのです。さらに単純な機械論、ラプラスの魔は、ボーア-ハイゼンベルグの相補性、不確定性理論により根拠をうしなっています。物質とは何かを突き詰めると、陽子、中性子の内部構造であるクォークは、もう私たちの知っている物質ではなく、美しい数学の理論、形而上世界の話となります。さらに量子の世界からながめる宇宙論では、目的論がその姿をほのめかしています。人間原理です。

 

 「観測者である人間がいるからこそ、宇宙は存在する」という人間原理は、物理学のみならずさまざまな分野に話題をもたらします。「宇宙は自己の姿をみる知的生命を育むためには150億年かかった」という言い方には、宇宙は最初から人間を創造する目的があったかのような印象をあたえ、人間原理は科学ではないという批判もあります。

 人間原理が私たちに目的論への改宗をせまる力をもっているのは、論理と検証を重ねてきた物理学解き明かす信頼すべきデータが、この宇宙があまりにも出来すぎていることを示しているからです。生物に限れば、細胞一つが偶然に出来る確率は101000分の1と計算する学者もいますがこうした希少な確率を理由に逆にだから自然選択が必要なのだという人もいますが、そうだとすれば炭素が出きるもっと低い確率はどう解釈するのでしょうか。それも自然選択でしょうか、それには生物の前提となる宇宙が出来る必要があります。私たちの知っているような宇宙をつくる初期の特異点を”偶然”に宇宙がもつ確率は1010123 分の1と見積もられそうです。これはこの宇宙にある素粒子すべてに0を一つずつ書き込んでも表しきれない数だそうです(ペンローズ)。どうやら宇宙ができ、さらに細胞一つが生まれるためには想像もできない数多くの恩寵が必要であったことを感じさせます。生物の誕生には、恒星や惑星も必要であり、炭素や酸素も不可欠です。人間原理の紹介では、アルファ粒子(ヘリウムの原子核)から炭素が星の内部でつくられる際に、きわめて不安定なベリリウムを通過しなければならないことの例がよく用いられます。炭素や酸素のエネルギーレベルは、生命を生むためにちょうどよい値に、設計されているというのです。また、水素からヘリウムがつくられるさいに関係する、「弱い力」の定数もやはりちょうどよい値なのである。少しでも強ければ、宇宙は水素だけしか存在せず、もう少し弱ければヘリウムの海となっていた。この物理定数は、電磁力でも、重力でも人類が生存するためになくてはならない値をもっている。電磁力が今よりほんの少し強かったら、電子と核は安定し、化学反応は不可能となり、あらゆる生物は存在不可能であったはずです。重力がやや弱ければ、星はつくられず、強ければ生物が進化する前に燃え尽きていたでしょう。また、宇宙の膨張率が初期に10-40ほど違っていたとしても、銀河も恒星もない宇宙となっていたそうです。このような論をきくと、偶然に宇宙や生物ができたという人には、目をつぶって地球から火星のゴルフ場めがけてボールをうち、ホール・イン・ワンをとってからその意見を伺いたくなるのです。


 
-----「宇宙の現象はいかに些細なる者であっても、決して偶然に起り前後に全く何らの関係をもたぬものはない。
必ず起るべき理由を具して起るのである。我らはこれを偶然と見るのは単に知識の不足より来るのである。」-----『善の研究』西田幾多郎

 

適正な目的論

 ニュートンが、アリストテレスの目的因を除いて、「いかにして」を科学の答ええる領域としたときから、科学は新たな出発を果たしたのです。だから「人間原理は宗教である」という考えも、「何でも理論」がはびこる危惧をいだく人も正当性をもちます。ただこのような希有な数値をみて、素直に驚く感性を物理学に持ち込まずとも、宇宙観としてこころの敬虔な部分にいだくことまで否定することはないと思います。私は人間原理が物理学から出現したことは、人間知性の進歩であると思います。宇宙の定数が生物に適したちょうどよい値であるという知見からながめると、宇宙が自己をみる知性を育てるための自己発展の奔流が、生物の出現や大進化まで貫いているように思えます。ビッグバンの光が、飛び散って消えてしまわず、銀河団をつくり、銀河系を形作り、恒星や惑星を生み、生命をその地に配置する展開図は、微々たる進化論など飲み込んでしまうようです。目的論を含んだ科学解釈の分野が開拓を待たれているようです。

 目には見えず物質を結びつける暗黒物質がこの周りにも充満してなければ、銀河系は消散してしまう、とは物理の答えです。水は4℃でいちばん密度がたかくなる、は化学の答えです。このような前提がなければ、生命を語ることができないのならば、生命の神秘を繙くには、生物の身体を切り開くだけでなく、おおいなる視点が必要です。

 生物を機械として見て、応用してゆく分野はこれからもすすめられてゆくでしょうし、多くの実益をもたらすことになると思います。しかし、生物の機械化から漏れた部分、われわれと共感できる生き物の精神性やラマルクのいうような内的感性(論理性や再現可能なものではなく、悟性で実在を把握するもの)を探究し、生命の成り立ちを物心両面から解き明かすことが、科学を倫理的にも健全に導くこととなると思います。

 ロビンの紅い胸はイエスから茨の冠をとって差し上げようとして紅く染めたものなのだ、という話はメルヘンです。しかし、ミツバチの後ろ足は、偶然花粉を多くつけられる個体が出現し適応して、だんだん花かごをもつようになった、という物語りもメルヘンです。蜜を集めるために進化したといえる適正な目的論をかたることが、健全な生物学の本当のあり方であると思います。

 そのために自然哲学をふりかえり、西洋思想に影のように影響を与えてきた神秘思想をながめ、新たな科学の方途を尋ねてみたいと思います。

2000.2
書き加え2003.8