進化の力(2)

−全自然はわれわれに向かって、自分は決して単なる幾何学的必然によって現存しているのではないと語っている。
自然のうちには純然たる純粋理性があるのではなくして、人格性と精神があるのである。−
『人間的自由の本質』シェリング著

内容の重複を恐れず、もう一度、簡潔なまとめと、進化の力を哲学する導入を書きたいと思います。

生物の世界の空間論

 今西錦司は、この地球にひろがる生物の世界に「種社会」という構造を発見しました。「種」とは人間の感覚器官では把握できないものであり観念世界の対象でありますが、「種社会」は種がこの地球に展開しているところの実存する種の全個体群です。

 生物個体同士は、栄養段階の階層を食物連鎖にしたがって「喰う喰われる」の競争関係をもちながら、「種社会」同士は棲みわけて調和された世界を展開しています。ニッチ、ニッチェ(niche)という言葉が、生物学で広く使われておりますが、今西錦司が想定していた棲みわけに相当する考えていいと思います。

 このように生物の世界には種(社会)を単位とする階層構造が存在し、食物連鎖の網によって逆説的といえますが、調和した世界を展開しています。生物個体に基準を見れば、下位の栄養段階の生き物が、高次消費者に食べられるのは、弱肉強食の厳しい世界に見えますが、種や生物界全体に基準をあわせれば、この連鎖は、「喰う喰われる」の関係の両者にとって必要なものです。そうでなければ、植物も動物も何億年も生命を運ぶことは出来ないでしょう。喰うものも喰われるものも同時に存在していなければ、生態系は崩れてしまいます。

 生物にこうした種を主体とした構造を見るのは「空間論」でありましょう。それでは、こうした構造が、もとは火の玉であったこの地球の歴史上、どのように発生したのでしょうか。こう問いを発さざるを得ないのは、ものごとの最初を知りたいという人間の理性です。

生物の世界の時間論

 今西は、生物の進化とは、この一つの星、地球の進展の歴史の一部と考えます。一つの星の育つ姿の延長に、生物進化があると。
 もと一つのものから、分化し発展したもの同士であるのだから、滅ぼしあうことなく、調和していてもいいのです。大洋上のある島に一種のフィンチ(鳥)がたどり着き、そこで繁殖しだしたとして、生態系の余剰生産物に対応して、食植性のものから食虫性のものまで分化しても、元種の発展ということを考えれば、進化に競争は必ずしも要請されなくとも良いし、いずれフィンチが島の生態系で支えられないほどに繁殖した結果、もと姉妹種のフィンチの血を吸ったり、猛禽類のようにフィンチを襲うフィンチが出現してもそれは生存競争ではなく、生存共栄と見ることができるのです。こうした時間的経緯を考えず、A種とB種とを、現時点で切り取って、それぞれ自己の遺伝子を残そうとして努力しようとしている見方は、人為的なものです。生物進化には調和する方向性がもとよりこめられているのです。
 
 しかし今西進化論は、生物が
進化する力と、調和する力の原因を、定義することは出来なかったのではないかと思います(これはラブロックらのガイア理論にも共通の課題であると思います)。
 今西は、この種が調和共存する力を、ユングのいうような無意識の世界(潜在意識)の構造で説明しようと見当をつけておりました。生物個体にこうした「原初」に対して、あるいは種や分化する前の種に対する、帰属意識、アイデンティティ、さらに潜在的なプロトアイデンティティというものを想定しておりました。こうした帰属意識を媒介に、個体が、種や、生物全体に求心力をもち、調和しつつ、より後進の種が既存の生態系に特殊化していくことを今西進化論のイメージとして考えてよいと思います。
 こうした帰属意識を、どのように学的に位置づけしたらよいのでしょうか。また進化を司る力と、調和に導く原理をどのように考えたらよいのでしょうか。今西自然学で準備されたその方法論として、「直感」が挙げられています。しかし直感、直覚は経験した人でないと理解できないので、これを学的に整備するか、直感へ導く何らかの方法論が必要です。

理論の限界と方途 

 「種」が観念世界の実在であるように、種を主体とする生物進化理論は、観念論的アプローチが、その理論を完遂させるために必要なのだと思います。今西進化論は、時代の制約からは完全に脱するために依拠すべき哲学を明確にもたず(西田哲学の影響はあるが)、地球上の化学物質、有機物質など無生物から生命が発生したということを否定は出来ませんでした。物質→有機体(生命;生物)という流れはこの時代を支配する思考の制約となっており、無理もないのですが、しかしこの思考方法が本当かどうか、両目を開いて立ち向かってゆかなくてはなりません。
 物質が精神を生むような唯物史観では、進化や生命の全体像を把握することはできません。ダーウィニズムは唯物論と添いあって互いに支えあっている思想です。進化を一種当時の流行思想におもねって唯物的に解釈することが先進的に感じられる時代があったということでしょう。しかし、生命および精神は、物質によっては導かれないものであるのです。

 生命と、進化の力を探求するために、学的根拠を考えてゆきたいと思います。そのためには目的論を学的に位置づけることが、自然科学全体の進歩にとっても共通の課題なのではないか思います。だって、今までの進化論にも、熱力学にも、ちゃんと目的論は巧妙に忍び込んでいるのですから。
 

学的根拠にいたるプロセス

 学的根拠を、シェリングの自然哲学に措きたいと書きましたが、その自然哲学の学的根拠は、絶対者、神といってもよいでしょう。
 と、こう書いた時点で、多くの方が先へすすむことをためらうと思います。それは科学ではないではないかと。しかし、シェリング自然哲学は、科学にとって重要な示唆を与える構造をもっております。科学と自然哲学の二眼レフの視点なくして、今後の科学は進むことは難しいからです。デカルトが「考える我」を学問の定点においてから、科学が発達してきました。そのデカルトも考える我からすぐに、より完全な神を導いていますが、であるなら神が学問の、科学の定点であってもいい。シェリングの自然哲学の性格を、二色くらいで描くとこういえるのではないかと思います。

 しかし唐突に絶対者が必要だ、という切り出しはよくありません。そこで、こう考えるにいたるプロセスが必要で、親切なのです。

 その親切な手引は、ヘーゲルの「精神現象学」、フィヒテの「浄福なる生への導き」など、シェリングの哲学に希薄な部門の方法論です。私たち個人個人は、身体を経由した経験から自由になることは通常困難です。ほぼ無理です。普通、これまで生きてきた時代環境や、身体的感覚から覚醒することなく、生きて死んでゆきます。これは、政治家でも科学者であっても、哲学者であっても、一部の人を除いては、ここから抜け出ることは困難です。しかし、デカルトも、カントも、フィヒテも、ヘーゲルも、みなこの身体的感覚やその時代の「常識」というものから穏健な方法で抜け出した方々です。シェリングも、カントやフィヒテの著作に取り組みながら、きっとこうした手順を経て、とらわれのない心境で自然を哲学したからこそ、観念論的な自然哲学を構想できたのだと思います。ただ、シェリングが、こうして自己の精神を仏教的無我の境地まで導くことへの素質がもともとあったため、後から来る人への示教にあまり熱意を感じなかったのかもしれません。「知的直観」として、全世界を一個の「知」として把握する境地までの修行論が希薄なのです(頓悟禅的)。その意味で、ヘーゲルが、感覚的なもののみを真なるものと認識している幼い精神状態(このまま死んでゆく人は多いのですけれど)から、真知と相即の状態へとなるまでに導いた「精神現象学」のような本は、哲学体系にいたるまでの導入としてどうしても必要なのです。

 しかし「精神現象学」のような本は、多くの人が読めるような本ではありません(実は私も読めません)。そこで、なんらかの方法で、自己の感覚的錯覚から解脱しなければなりません。デカルトの「方法序説」(まだ読みやすい)のように、一切の存在を疑い、白紙の視点を得るということも一つの方法かもしれません。こうして(ほとんどそのプロセスは書いておりませんが)時代的思考の制約、身体的感覚のとらわれから解き放たれた状態で、「唯一」になる、あるいは「思考即我」の感覚を得ることができるのです。これは、哲学者の特権ではありません、科学者であっても、演繹的な手法で科学を進展させた偉人は、いつかこの境地を経ているようです。それが、1年先か10年先のことか、わかりませんが、こうした経験を経ないことには、これから書くこと、そして今まで書いてきた内容も、ほとんど理解されないことでしょう。たとえば、こうした幸福な内的状態を個人的な経験として、脳内物質のような外的なものや、心理学などで高みから説明しようとするような思考癖の人には、なかなか通用しない内容と思います。

 今西自然学も、ある程度こうした方法論が関係してます。だからこれ信奉する人、そしてある程度、直感とか純粋経験ということに理解ある人からは、「わかる、わかる」ということになるのですが、理系思考の方からは、自然に対する心情はわかるとしても、その進化論は「わからない、わからない」として、非科学の世界に入れられてしまうのです。



 さて、話をもどしますと、学的体系にいたる方法論として、自己を相対化させる訓練が必要だということです。仏教的には、おそらく、諸行無常、諸法無我の理を知り、涅槃寂静の状態へと没入すること、そして普遍的思考の一部となった視点から、なおその視点を与えた神(ここで、神が出てくる論理的必然性は、どう導き出せるのでしょうか。しかし実体験すれば、その神秘的感覚によって、自己を超えたものへの存在を密接に感じるようです)を知るためへの階梯と、神が創られた世界への探求の両方が開かれているのです。前者が、フィヒテの知識学、後者がシェリングの自然哲学です。その自然も、神、絶対者、唯一のものが創られたということは、もとは「一」なるものであったはずです。これが学的根拠です。
 「そして到る処で、またいかなる時にも、自然及び存在する総てのものの至高創造者の意志は変ることなく遂行されている。」これはラマルクの『動物哲学』の言葉です。

学的根拠からの発展主体性環境(客観化された生物の身体を含む)の弁証法による進化

 
不増不減の「一」なる絶対者が、どのように自然を作っていかれたか。これは科学の領域ではないでしょう。しかしこれは哲学の領域だ!と語ったのは、ヘーゲル、シェリングたちの共通の情熱なのです。すこし今の科学の言葉を使ってイメージしてみると、ビックバン以前の絶対者が、自己を顕現させようとして自身を自己外に生み出した結果、神’(ダッシュ)が創られた。しかし相対的なものが生まれたと同時に、絶対者の「絶対性」が失われる矛盾に巻き込まれ、その矛盾を解消するべく、絶対者は神’を自己に取り込もうとする、しかしこれを取り込んだものは、すでに元の絶対者とは異なるものとなっているため、さらに、時間的に超越している絶対者に取り込まれる・・・しかし、その絶対者はもうすでに最初の状態とは異なり・・・・。この無限の活動が自然であり、自律的に運動をやめない自然の根源の力だというのです。

 絶対者とは無限の光(無限の主観)でもありますが、またこれに対するものがなければ、その存在がわかりません。神’は物質ではありませんが、絶対者の光を受ける物質の基(絶対者から見た客観)になるものです。この「一」なるものが分化し、多様になってゆく姿が、宇宙の歴史です。同じく唯一のものから、判断や様々なカテゴリーを導いたフィヒテのように、シェリングも弁証法によって自然の多様なる姿を導き出します。こうして主観たる創造的な光(能産的自然、生み出す自然)が、客観的なる物質精神(所産的自然)に絶えず作用し、物質世界をより精神的に、そして、究極には絶対者の許へと導かれるような、真なる、善なる、美なるものへと目的をもって、変化してゆくのです。大まかには、自然は、物質、質など重力の世界、電気、磁気、化学親和力などの電磁力の世界、生物の世界の低次還元不能な次元構造を発達させてきました。

 大まかに世界の成り立ちを、シェリングの構想に依って書いてみました。ここで、とりあげておきたいことは、壮大なパノラマの審議ではなく、自然界、この時空間は、絶えず作用している
創造的な精神と、それに抗する求心的な質を持つ多様な精神とのバランスの境界になりたっているということです。精神に満ち満ちた世界のほんの一部が、目に見える自然あり、科学技術が通用する世界です。

 この複数のエネルギーに満ちている時空間と場の物理学との距離は非常に近くなっていると感じられます。能産的自然と所産的自然は、エネルギーと質量、場(波)と粒子という関係と同じと考えてもいいのかもしれません。この自然界は、原子、分子から、鉱物、生物、大陸、星、太陽系、銀河、銀河構造にいたるまで、この拮抗する精神性が絶えず働き続けている動的な世界です。こうした、宇宙の運動につながる生物の世界で、進化論は、自然選択のような補助輪をはずしても、ひとり乗りできるでしょう。これを人間の視点をはずして、自律的進化とよべば、最新の進化論に近づきます。しかし、なお、進化論(そして科学にも)には、人間の存在と不可分の部分が残るのです。

学的探求の道

 この宇宙を進化させている力は、身体の感覚器官に埋没し、その感覚から励起された感情に支配されている人にとっては隠された(オカルティズム)力ともなっています。ですからいかに多くの人に知的に理解が可能なように、数学などの言葉を使いながら説明してゆくか、ということが必要なのです。その進化論のためには、進化論とはきってもきれない経済学の理論と、熱力学、情報理論、あるいは宇宙物理学がたすけになるのではないかと思っています。

 (今西錦司の世界)

続け