対談「今西錦司の世界」のまとめ
 

 --こんにちは。枕さんは「今西錦司の世界」というホームページを作成しておりまして、今回はこの今西錦司さんとその残された学問についてうかがいたいと思います。

 M よろしくお願いいたします。今西錦司さんは、1902年に京都に生まれ、京大卒業後40代近くまで無給講師で昆虫学、分類学などを手がけ、そこから一転、哺乳類(ウマやサル)学を強力に押し進め、独自の進化論を打ち立てたことで有名です。どの分野でも才能を発揮し、KJ法の川喜多二郎氏や河合雅雄氏、梅棹忠夫氏はじめ各分野に一流の後継者を育てたことでも異才を発揮しております。ダーウィニズムの特に自然(淘汰)選択説を批判し、秩序と調和を基調にした進化論が知られております。

 --「棲みわけ」、「進化は変わるべくして変わる」とか「系統発生は個体発生をくり返す(ヘッケルの個体発生は系統発生をくり返すとは異なる)」「運者生存」などは耳にします。

 M そうですね。けれどもそれは、今西理論の入り口や出口の残滓であって本質ではありません。

 --「今西錦司の世界」の冒頭は、物理学を中心にした科学論ですね。これは意外な展開なのですが、わかりやすくいうと・・

 M 今の生物学は実は物理学の延長です。物理学で明らかになったことをもとに、その枠組みを通して見える対象を生き物の身体に変えたものが今の生物学の理論部分なのです。これを村上陽一郎氏は、物理学帝国主義の植民地とよんでいます。物理学が自然科学の中で進んでおり、他の科学分野に理論を与えているのは事実です。そこで何故物理学が発展してきたかその理由を確かめたかったのが一章の「科学について」なのです。

 --そこでは自然科学の登場から、科学者の思考方法までかかれていましたが、やはりそこには精神世界なくしては科学もあり得なかったことが紹介されていましたね。これは枕さんもそう考えるわけですか。

 M まず科学の創始者はみな神の創られたこの自然という聖書を読もうとする情熱からそれぞれの仕事をされたわけです。そしてこの五官で認識できる経験から出発して、これらの現象の背後にある統一法則を探究し、この世界はこのようにつくられているといった信念を検証実験でたしかめ、その結果を人類の幸福の貢献のために捧げたのです。

 --哲学と異なる点は、再び感覚世界で共有できるものを求めたのですね。

 M そうですね。しかし大切な点は、いったん精神世界、形而上の世界の法則を探究する考えのみちすじであって、この世のものの原因をこの世のもので説明したことが、物理学の発展であったわけではないことです。身体の恒常性をホルモンなどの物質で説明することは可能であり、医学上有益なものではありますが、なぜ、という答えにはならないのです。物理を支えてきた中心には、質量自体とか、場とか、エネルギー保存則など、理念から出発しているのです。科学は、理念なくして進まないのです。

 生物学が本当にその学問の使命を果たすものであるならば、物質で全てを説明するという物質学から自由になり、生命を目的とする必要があります。

 --そのための理念が生命、そして今西氏のいう種であると。

 M 種。そうです。この種の実在をこそ、今西氏がうったえていたものなのです。私達が見、触ることのできる生き物の姿はみな個体の姿をとっています。そこで生きている原因を個体に求めようとすれば、私達は生き物を解剖し、その内部の形態を知ろうとします。そして器官、細胞、細胞器官、DNAと生体の情報を枚挙してきたのが数世紀にわたる生物学の発展でした。ダーウィンの進化論も、この個体の個体差から出発した進化論なのです。

 しかし種は、この種の個体全てを含む全体であり、個体の背後にあるなにものかなのです。細胞は、それぞれが自己複製して自己の保存にせいいっぱいですがそれでもって個体という全体を成り立たせています。それ対応関係にあるのが、個体と種なのです。

 --しかし、種は見えないものですね。「今西錦司の世界」で種と形相(エイドス;イデア)が同じ語源だと知りました。種はない、という学者もおりますし、「種の起原」を著したダーウィンですが、その理論を行使させると種はなくなってしまうと聞きましたが。

 M 種が現象界で把握できるかたちで空間的に展開されたものを、種社会と呼んだのです。

  --社会ときくと集団を想像しますが、セミなんかも社会を持っているのですか。

 M 種社会は全ての種が持っています。全ての種個体が、その種に含まれているのです。サルのように集団をつくるものも、そうでないものも、その種独自の社会を持っています。有性生殖による同種の他個体同士の性による認めあいが最低のレベルにおいて社会を形成する要因となっています。

 --その社会同士、それぞれの種の生活範囲を守っているところが棲みわけなのですね。

 M そうです。今西氏はカゲロウ(水性昆虫の一種)の幼虫を研究している途中に、個体の棲みわけ現象から思考を飛躍させ、種が棲みわけていることをつかんだのです。個体同士が、食物連鎖により喰う喰われるの関係にあったとしても、種の立場では整然と種はその種の望まれる場所に、一番安定した形態で生活している・・

 --望まれるとは・・

 M その前に、この種に主体性を与えておきたいと思います。種はいたい場所にいる。その主体性です。種はその属する個体が生まれては死に流れつつも変わらない実体でありますが、その種に時間の前後を見る価値を自己創出する主体性を付与しているのです。

 --急に不可思議な話に・・・・

 M ならば仮説と思って下さい。種は主体性を持って個体存続に統制をあたえ、個体は種に帰属性を示す関係性を提示しています。

 --個と全体の関係性ですね。このような構造を生物の世界に観るわけですね。これが、主体性の進化論となるわけですね。しかし何が主体性の原因になっているのでしょうか。

 M それが先ほどの「望まれる・・」という話で触れた、「望む」主体にあたります。それが生きている生命であり、具象化して生物全体社会という地球上全ての生物を含むものとして現れています。この生物全体にも、生きるという主体性があるのです。

 地球はかつて火の玉であったのですが、太陽のまわりを回るうちに、大陸や海や大気が生成され、生命がはぐくまれ多くの種が栄えて、現在に至っています。元は一つのものが生成発展してきた姿です。原初の生物が、一種であったとしても、地球上どこでもそのような条件が整い生物は同時多発的に発生したと考えられます。そして、その一種がエネルギーを循環散逸させるうちに、様々な環境に発展を目指し乗り出してゆくことが進化であったと考えます。その環境とはまた、生物自身の身体でもあり、食物連鎖や寄生や共生といった多様な生活様式を選びます。

 --もともと一つのものであったという歴史上のことが、現在にも影響しているとみるのですね。そのために、同一のものが争う必要はなくなり、それぞれの種の環境で自由に生活しているのですね。なるほどガイア仮説の先がけのようにいわれるわけですね。

 M 種の個体は、その種の個体が生活するために必要な機能と構造を備えています。その種が、五官を使って認識できる空間、いわゆるその種の世界にとっては、その種個体が一番適しているようになっているのです。ダーウィニズムのように、わざわざ適応していない個体から淘汰されて生き残る必要はないのです。

 --だいぶ自然の見方が変わってきますね。話が進化の方に移りましたが。

 M 種社会という空間構造からはいって、生物全体社会になりましたが、この生物全体の生命を時間軸に自己展開すると進化になります。これは先ほどの話と同じになりますが、生命が、多様な地球環境をまるで生き物という窓を通して覗くようにして多様化したものが種であり、個体であるのです。種が変われば、個体は一斉に変わります。種がその地球史上の役目を終え、別のものに転化するときに、可視世界では種が絶滅するように写ります。しかし生命それ自身は永遠を目指しているのです。一つの細胞が、個体の身体をつくるように、個体は種を成り立たせる部分なのです。個体の立場で見れば、どの個体も個体差を持っていますが、種の立場で見るとどの個体も似通っており、ある刺激にはみな同じように反応し、変化するときは同じように変化してゆく・・。




(「二にして一なるもの」は、仏教でいう「色心不二」「色即是空、空即是色」、量子力学の「相補性」か。)


 


 上の図は、原初の生物が、その生物自身の生活によって変わった環境に対して、生命を保存する方向に種分化を起こし二種が共存する過程を描いた。この二種は、後に喰う喰われるの関係になるかもしれない。しかし、それでもって生存競争と見るのはあまりにも個体中心的発想(しかも生命は死んだら終わりという唯物論的悲愴感を生物に押しつけている)である。種の立場で見れば、これは共栄の姿である。この対立しつつ相互依存的に棲みわけている関係が、密度化する事を進化と呼んだ。  

 思えば、全ての動物はエネルギーを植物の同化産物に依存していながらそれで滅ぶことなく、両者が共存し、より躍動的な進化を示していることを考えると、進化における共存の主張を認めることは難しいことではない。 

 --徐々に生物が変化していくのなら、まだつばさが少しできたばかりのコウモリはどこが有利で生き残ったのだろうとか、ソナーを少しだけ発信したり、受信しなかったりしたイルカはどのように生き残ったのだろう。少しだけ前脚が鎌型になってしまったバッタは適応したのだろうか。10cm背の高いキリンが生き残ったとしても、その子供は全部死んでしまうのではないか。化石では種は突然に現れ、中間的な形態を持っていない、このようなことはずっと指摘されていたことでしたが、進化は個体に着目してはわからなかったのですね。

 M 理念である種が変わるから、個体が変わるのです。それを表現するのに「変わるべくして変わる」としかいいようがないのです。これでは、なんの説明にもなっていないと今西進化論はいわれるのですが、じつはまだ人類が進化に対してわかっていることが、これ以上のことではないのです。

 --しかし、だんだん明らかにされてゆくのですね。

 M それはそうです。そのために、生物学には本当の意味で生命の探究者が増えなくてはなりません。そのためには、デカルトが物質と精神に分離して、唯物論者からははずされていた精神の奥に探究の目を向ける必要があります。精神の奥の、時間、そして時間を超越し時間の前後の価値を判断する視点を持たなくてはならないと思います。生物の世界の中に、種や地球生命全体といった構造を感じとり、その社会が時間の流れにおいて変化してきた過程を素直に精神の中に問い続ける作業が必要となります。

 -- 一つの生命が、もと一つという歴史(愛)をもとに、同じくもと一つのものであった地球環境を知りたいと思い、認識の窓を開き、そしてそのまた生命自らの姿を省み、生成発展してきた姿が生命であると。壮大な話であると思います。もともと一つであるといったことが運動のおおきな要因になっているようですが、この話を宇宙に向けてみると、宇宙もまた一つのものからできたことが知られていますよね。今西先生の理論を、宇宙創世に当てはめれば、地球と棲みわけている他の天体の生命もあり得そうですが。

 M はは・・今西氏はそこまではいってはいませんが、理論の拡張ではそのようになります。

 --また今西構造論をわかりやすくいってしまえば、生物にその生物らしい精神性を付与することになりませんか。

 M 種というイデアと主体性を考えると、これは「精神」でしょう。今西氏は鉱物にも精神性を認めてよいと書いています。唯物論者のように、動物を物質と扱ったり人間の精神性も物質から(進化したと)考えたりすることも極端で、人間の精神の探究から、動物の精神をどの程度類推できるかが、これからの自然学や生物学の一分野に含まれるでしょう。

 --1999年9月号の Liberty(幸福の科学出版)にも、西欧と東洋彼我の生物観の違いを取り上げておりましたが、これをみると今西錦司の業績はまずは東洋から受け入れられてゆくように思えます。

 M 自然観は大切です。今西自然観は、環境やほかの生物にも新しくてかつ本当はなじみのある観方を育むことと思います。環境問題もたしかに技術で克服できるでしょうし、生物や人体も機械論的な解釈でまだまだ応用されることもあるでしょうが、大切なことは、彼らも私達も同じ船の乗り物と乗組員であり、同じ方向を目指して生きている仲間であることを知ることでしょう。

 --自然という言葉を発しない、けれどずっとわれわれをはぐくみ共存してきた仲間へこころの耳を傾け、その慈悲に包まれたとき、またわれわれはこの地球に生かされる幸せを感じるのでしょうね。今回はありがとうございました。

 M ありがとうございました。 

1999.8