「変わるべくして変わる」

 今西進化論とは、「種は変わるときがきたら一気に変わる」というような言葉で理解されています。進化とは、1〜数個体のわずかな変異が自然選択をうけて時間軸を等差数列的に個体群中に増えてゆくものではないことを、説いたのです。

 しかしこの言葉、イメージが先行して、「ですから今西進化論は進化のメカニズムは何も説明していない」という批判が多いように思います。この意見は、これで正しいのですが、ぜひそこをこらえて、もう一歩の奥にある今西進化論の面白いところを知っていただきたいと思うのです。ここで引き帰えられたらもったいない!!

 話は一気に変わりますが・・・以前、ツバメの親が、巣立ったばかりのヒナたちに、壁の止まり方を教えているところを眺めたことがあります。まず親が壁のタイルにつめで引っ掛けてとまってみせて飛び立ちます。周囲を飛んでいたヒナたちが同じように順番に挑戦するのを、親はとびながら見ていて、子供たちが失敗すると、また自分がやって見せるのです。垂直のがけでも羽を休めるためのトレーニングでしょうか。こうした動物の心温まるシーンは、よくテレビでも見ることが出来ます。この今見ている生き物の世界を、偶然論と利己的遺伝子などの思想から守りたいという動機は、批判されても立ち上がる多くの非ダーウィン主義者の共通の感情かもしれません。

 さて「変わるべくして変わる」にはいくつかのテーマがあります。
 まずは、種が突然変わるということ、そして、変わる方向性があるということです。
突然変わること


 まず、時代背景として、誰も(たぶん)中立進化とか彷徨変異とか自然選択にかからない変異や、断続平衡(跳躍平衡)説ということを言っていなかった(ダーウィンはこうした現象は知っていたのですが)時代ですから、ワイスマン以降の自然選択万能主義で進化を説明しようとすると、結論は先に述べた漸進的な変化でしか語れない。たしかに同胞種群を見れば形態のわずかな差異で連続しているようにみえる。オオニジュウヤホシテントウとルイヨウマダラテントウとの形態の差は不明瞭かもしれないが、オオニジュウヤホシテントウとナミテントウはいかに、他のテントウムシとはいかに、と問いかけたらやはり種は断続している。また、変化の歴史、すなわち化石をみてもそのようだ。といったときに、「種は変わるべくして変わる」という、不連続の進化を言い出したことは、この当時の(ちょっと皮肉)正統派進化論よりもただしく真実を述べているといっていいと思う。

 創発(emergence)という概念が、進化の概念へと導かれています。創発とは、初めての人にとってなじみにくいのですが、イメージの例として「自己組織化と進化の論理」にあった数理的現象をあげます。ボタンを数千個床にばらまいたと想像してください。このなかから、二個ボタンをとり、糸で結び付けます。これをまた床に戻し、また二個拾い糸で結んで戻します。最初のうち拾うボタンは二個がほとんどでしょうが、たまにすでに結んであるボタンを取ることもあるでしょう。二個と三個のボタン群を結ぶこともあるでしょう。しかししばらくは、1〜数個のボタンを手にするはずです。ところが、こうした操作を続けているうちに、あるとき、ふとつまんだ一個のボタンに数千個のボタンがつながった大きな塊を、突然持ち上げることになるそうです。その臨界点は予測はつかないそうですが、どこかでそうした劇的な変化を体験することになるそうです。これでは、創発の正確な説明にはなりませんが、こうした小さな連鎖を続けてゆくと、突然大きなレベルの変革が起こる現象があります。社会現象としても、1938年のアメリカで、「火星人襲来」というフィクションのラジオ放送が、大きなパニックを引き起こしましたが、最初はこの放送を本気にした数名を原因に、「まさか〜」ぐらいに思っていた複数の人と、噂を聞いた人だけの多くの人によって社会現象となりました。もちろんこうした現象は、同地区に毎年起きるわけではありません。
 こうした現象が、非科学的なものでなく実際に起こりうると知れるにつれ、生物進化も同じ過程を経て、突然起こることのもあるのではないかということへの信頼性が出てきました。
 これは、いつ起こるかわからない、けれど微視的レベルで、後の大変化を引き起こす何かが蓄積されておるのではないか・・・。この「いつ起こるかわからない」と劇的変化を、今西は「変わるときがきたら一気呵成に変わるんや」といったのですから、数理理論が十分に流布されてない時の先見性を認めても、非難することはないという思いがあるわけです。

 「変異のメカニズムがない」という意見に対しては、それはようやく近年になって数理モデルで解析されたのですから(そしてまだなぜこの世界が創発がおこる世界であるのかということは、証明されてないのではないかしら)、ないものねだりというものです。ダーウィンのパンジェネシス説も評価する人あり、けなす人ありですが、遺伝のメカニズムがわからない時代において、進化論をささえる立派な仮説であったと思います。それを後世の視点のみで批判するのは独善的でしょう。それよりも、世界に先駆けて、全生物に種社会が存在することを喝破したその知的営為に深く思いをいたしていただきたいと思います。

 今西は、1〜数頭の生存に有利な個体差をもったものが、自然選択によってその個体差が遺伝し多数になる、という説のみで、全ての種の多様性を説明できるとして満足していた人々(もちろんすべてのダーウィニズム信奉者がそうであったわけではないでしょうが、一般通念はこれに近かったのではないでしょうか)に対して、ショックを与えたのです。そして、今西によると、このときに一斉にかわる個体群が血縁関係に無関係であるなら、これは個体群でなく種社会というべきものなのです。

変わる方向性があるということ

 「変わるべく」の「べく」のところに、面白いところがあると思います。ラマルクは進化に、生物の内的感性の刺激する方向(よく使用する器官の使用方向への進化と、使用しない器官の退化)という、生物に主体性のある方向性を考えていました。ダーウィンの理論では、変化は無方向であり、生存率の高いものを残すという方向性を自然選択に託しました。この遺伝子頻度を高める方向性を、目的ととるか、あくまでも結果主義の機械論的にとるかダーウィン主義者陣営にも濃淡はありますが、本質は「偶然」の変化と、時間をほおっておいて生き残るものを進化の方向性とします。
 今西進化論の進化の方向性ですが、まず種の主体性、生物側(生物の身体とかDNAとかという意味ではない。これらは環境でもある)に第一原因をおきます。また一定の環境を棲み分けるための、棲みわけの密度化という方向性があります。これについてはこのサイトの他ページを参考にしてください。密度化ということは、多様化にもつながります。種の共存共栄が方向性です。ダーウィン主義者の常套手段として、「たとえばここに尾羽の少し長い個体がいます」という個体差を無条件に前提としてだしてきます。しかし、知りたいのはなぜそこに尾羽の長い個体がいたかという点でしょう。目に見える現象として、尾羽の長い個体が少しずつ個体数を増やしてくることを進化としても、それが自然選択や配偶者選択の結果なのか、変わるべくして自然(自ずから然るべく)に変わっていったのか、誰も確認していません。理論としてはもちろん前者のほうが人に納得しやすい構造をしています(後者は理論でもなんでもないですから)。しかし事実はどちらが本当かはわかりません。

 「進化の新しいタイムテーブル(S.M.スタンレー)」で紹介されていたのですが、ハワイ島へ人間の手でバナナが持ち込まれて1000年、2種のガ(ヘレディプタ属)がバナナにつくハワイの固有種として分化しているということがありました。これが本当なら同胞種の例でもっとこうした例はあっていいはず。作物と農業害虫の関係をみてもそうですが、自然界には一定の量をこえて一種がはびこることをおさえるしくみがあるようです。これをまた’おきて’とみるか機械論的結果としてみるかは自由ですが。先の例も、おそらくはもとの種はハワイにいたガが、亜種化するなりしてバナナを食害するようになったのではないかと思います。その亜種は、もとの種とは多くの場合、翅の模様もいくぶん異なり、性フェロモン成分も触覚受容器も差異があり、消化酵素などにも変遷があり、交尾器の微細形態や、活動時間帯など異なっていると思うのですが、それが突然変異+選択の結果であるか、変わるべくして変わったのか、進化の過程の現場を見ていたとしても判別は理論が先にないとそう見えないでしょう。

 そこで冒頭の生物の生物らしさを守るためにも、今西進化論を理論化してゆくことが求められます。ところが、ここに一番の問題が潜んでいるのです。
 なぜなら、現在の多くの人がイメージしている科学≒唯物論的思考枠では、目的論は理論化できないことになっているからです。そこではダーウィン論はいくら納得いかなくても負けない理論なのです。そうでなくても中立進化と選択説をもって負けるはずがありません。中立進化は正統派進化論にとっては取り込んではいけないトロイの木馬と思うのですが・・・。
 なぜ、目的論が理論化できないかというと、デカルト-カントの組み立てた科学哲学プログラムは、目的論をもともと排除しているからです。ですから、主体性とか精神性とか、演繹的定理のような形で数学化できないうちは科学として理論化できない。

 デカルトは精神と物質の分離ということで、物質世界を科学が思う存分探求できるよう準備しました。しかしこの物質世界;近代科学の基礎にある空間+時間は、自然の真の姿ではなく、実は人間がそのように自然を見ようとしているにすぎないということをカント
(ブラウザの戻るで帰ってきてね)が吟味しなおしました。生物をどんどん細かくしてDNAにまで生物体の本質を突き止めたことも、その変化がたんぱく質の配置を制御し、形態の変化をもたらすことも、デカルト-カントが用意したプログラムに沿った流れに合った正しい科学の順路であったのです。しかし、ここからいえることは、遺伝情報の変異が個体表現型の変異を生み、こうした遺伝子を持つ個体の頻度が集団に広まってゆくことを叙述できることが限度であって、なぜ進化するのか、進化の目的とは?、なぜ生存率を高めることを生物が目指すのか、とか身体機能の停止が生命の死であるかという精神性や生命に関わる疑問に対しては最初から返答不可能な原理をもっていたのです。創発の概念でも出てきますが、「全体は部分の総和以上のものである」とすれば、近代哲学によって「精神と物質」あるいはくだけて「文系と理系」と分野をわけて分析してきたが、物質だけの科学的探究だけでは絶対真理に到達できない。
 
 生物が変わる方向に目的性を見ることは、カントによれば人間がその合目的的性を与えるという仮定によって成立することが可能です。そしてこのサイトの第二部「自然哲学の庵(まさに今西進化論の進化のメカニズムを考えたくて作りました)」で紹介した同じくドイツ観念論のシェリング自然哲学によれば、もっと積極的に、自然は目に見える精神である以上、精神の法則に従い合目的的に変化するということを学問として打ち立てました。ゲーテの思想も非常に近いところにあります。今西進化論を学的に裏付けるためには、今後自然哲学への理解・整備が必要と思います。その後はじめて今西進化論は科学理論として磨かれてゆくことになるでしょう。今西博士もメカニズム解明に方途がなかったわけではありません。生物進化の原動力に、種と個体をつなぐ不可視の何かを想定しており、精神性へと向かう探究進路を持っていました。科学者廃業宣言をして後のことになります。
 

変わるべくして変わる

 今、ガラパゴス諸島に当地にはないブナ科の植物を、思考実験としてはびこらせたらどうでしょう。現存種が食性を変えることが出来ずに、病原性細菌やカビなどもこれらの異邦種の繁茂を食い止められず次第に現地生態系を圧迫するとします(種(たね)の運搬などは都合よくやってくれる種(しゅ)がいるとします)。この帰化種が何種かの植物や昆虫などを滅ぼすほどになったとき、どこからしれず今まで見たことのない亜種が登場し、生態系を修復するようにはたらくとほぼ確信できます。しかしそれがどのようなメカニズムで亜種化されるかということが問題です。さらに、このときこの植生を変えるという行為が、なんのことはない意図していなかっただけであって、選抜されるべき環境を作った人為選択という意見だってあるわけです(かつて夢の島に大量の殺虫剤を噴霧した結果、薬剤感受性が低下したハエが増え、解毒酵素活性の変異した個体群が増えたことをもって進化と呼ぶ学者もいますが、これだって人間が最初選抜の意図をもっていなかったというだけで、品種を選抜する人為選択となにが違うのか差別化しにくいことがあります)。

 それはおいても、亜種化が自然選択によって徐々に個体ごとにおこるか、あるいは冒頭のボタンを結ぶような仕組みで突然多個体に変化が起こるか、その検証の前(実際実験は出来ないでしょうが)に、今西進化論の理論の構築が必要と思います。そのために、哲学とか数学とか情報理論とかが整備され、熱とか宇宙論とか相対性理論(主に時間論)とかが、中学生レベルでも理解できるようにならなければいけないのではないかと、(根拠もなく)思います。

 「
基礎概念や基本定理は人間精神の自由な創造であって、それらは・・・いかなるやり方によっても先駆的に正当化されることはないのです。」とはアインシュタインです。「変わるべくして変わる」は、今西進化論のアウトプットの部分であって、本質ではありません。本質部分である、生物の世界に種社会の構造を見、個体と種とをプロトアイデンティティで結び、種を進化の単位として、主体性を付与しているところは、帰納的に正当化されることはなくとも、生物の世界を理解するうえでの基礎概念として今後また認識されてゆくでしょう。

 このページは、今西進化論の批判が「変わるべくして変わる」とは何も説明していない空虚な説だ、というものが世間に多いので書き足しました。「彷徨変異+自然選択(+ミーム)」の「なんでも説」でも何も説明していないのですが。

2003.8