コラム:生物の精神

 

 精神人類学を専攻とされる藤岡喜愛氏の「イメージと人間:NHKブックス」の紹介もかねて、生物の精神性を考えてみたい。藤岡喜愛(ふじおかよしなる)氏も京大出身の、今西学派に属するといって良いのだろうか、対談などもされている。この本によると精神現象は、「外界--知覚--内界」という形式を持っている。内界はイメージの世界であり外界から遊離した空想の世界でり、外界は自然科学の世界、一般に考えられる「世界」とすると、そこに介在し連絡し互いの対応関係を結ぶものが知覚(感覚+脳作用)であるとする。この関係の厳密な区分は難しいであろうが、この関係で精神作用が表現される。

 様々な電磁波や音(はたして感覚できない電磁波が外界に考えられるのだろうか、内界に属しはしないかという問いはおいておく)が飛び交う与えられた外界の中で、知覚は可視光線や、一定の周波数を選びだし、内界に伝え様々な印象を我々は抱くことができる。

 さて知覚は人間の身体のもつ作用であるが、これを含めて外界と見ると、物質世界(外界+知覚)と心という関係になる。ところがたいていの人は、知覚と内界をまとめて身体的(脳作用)にみて精神を考える習慣がついている。

「外界集合--知覚集合--内界集合」
 外界は、個体へ影響をおよぼす外界の要素の総体であり、知覚は内界、外界についての知覚の総体である。内界は個体内部の個体が独自につくる世界であり知覚をとおしてつくられ、知覚をとおして外界に影響をおよぼすものである。
              イメージと人間p.118の表より改変

 このように図式化しておいて、ファーブルを頼りに昆虫の「外界--知覚--内界」を考えてみる。ジガバチは地中のヨトウムシの幼虫を探索し、痲酔をかけ産卵し、幼虫のえさとして格納する。このとき、ファーブルにはジガバチが確信を持って土を掘り、知っているかのようにヨトウムシの神経節に針をさすことを認める。これを「知っている」といってどこがいけないのであろう。ジガバチにとってはジガバチの種に特有の感覚器感は与えられており、それに反応する外界も与えられており、そのジガバチの可能世界で「外界--知覚--内界」の関係を独自に形成している。すなわち、その種特有の精神を持っている。

 ひいてこの関係が認められているところに、藤岡氏はすべて精神を認め、植物や原生動物にもこれを認めている。進化的には、原初の生物が発生したときより、精神は発生したと見ている。知覚が種に特有なものとして与えられているかぎり、それを通した外界も内界も種特有のものを持つ。その関係を精神とすると、種には種ごとの精神を持つといってよい。精神は与えられた知覚を使って、より認識(外界+内界)を拡大せんとして知覚すなわち身体器官を発達させようと(ラマルクの言を借りると、内部感覚、内的欲求の刺激がくり返される方向に)進化したと考えることが可能であるならば、わざわざ、祖先種のハチが突然盲滅法に、土をほりかえし、たまたま蛾の幼虫を見つけた個体が生き残って、たまたま蛾の神経節にうまく針をさすことのできた個体がうまれ、たまたま同じような習性をえた個体と交尾し・・などと煩わしく不愉快な漸進説から解放されるだろう。