『自己組織化と進化の論理』ノート
 

 美しきこの青い星の中で、我々とともに生かされている秩序ある生き物達は、ダーウィニズムと呼ばれる、 ランダムな突然変異と自然淘汰による選別によって偶然の出来事の一部におとしめられてしまった。歴史的偶発、除去によるデザイン設計という思想によって、生物はその場限りの科学の対象になってしまった。
 本当に秩序は偶然の産物であろうか。この著書は、秩序は自発的に形成されたものと主張する。

 約三十億年前に生命の痕跡のようなものが化石に現れてより、今からおよそ5〜6億年くらい前までの長い長い年月、地球に抱かれた生命圏には単細胞生物というものしかいなかった。突然と言っていいほどに、カンブリア紀に生物の主要な「門」のほとんどすべてが、この進化の創造の爆発で作り出された。いわゆるカンブリア・ビックバンと呼ばれる。今まで漠然と信じられていたように徐々に高度な型ができたのではなく、まず大雑把ではあるが様々な生物の系ができてから、精緻化されていった歴史である。
 このようにカンブリア紀の種の大爆発の不思議な特徴は、進化の図表が上から下に向かって埋められていったこと。「門」が多数生まれることにより、綱、目、科、属、が形成されていった。この生命の系統樹は、技術の系統樹の類似性になぞらえる。船や馬車やグライダーから別個に、少しずつ部品の改良がなされ汽船や汽車、飛行機ができたのではない。蒸気機関という発明のあと、各運搬手段に着けられたのだ。蒸気機関の発明後、操舵手や馬子は職を変え、石油以降は、炭坑夫も職場を後にした。同様に種形成と絶滅は、種の社会の自発的なダイナミクスを反映している。進化や絶滅は内因性の自然な過程の出来事であるという。

 ダーウィンの理論は、説明には強いが、予測には弱い。科学理論に予言性は不可欠である。今あるものについてはなんとでも言えるが、未来のことについて何も語れない理論は科学理論ではない。統計力学は気体分子の運動に関しては有効性を示すが、生物系は高度で複雑で不均一なものである。未知の生物学的性質の発見なくしては、生命の不思議さは深淵の彼方に隔てられたままになる。この本では、自発的な生物の秩序の創造を呈示する。

 秩序が生まれるには、二つの形式がある。低いエネルギーをもつ平衡状態。鉢の底のボールやウイルス粒子形態の安定性であり、一度その状態を得ると保たれる。もう一つは、秩序化された構造の維持に、質量あるいはエネルギーまたはその両方の供給源が必要であるもの。木星の大赤斑などである。後者を指して、イリヤ・プリコジンは「散逸構造」と名付けた。物質とエネルギーの流動が、秩序を生みだしている。細胞からすべての生物、生態系は散逸構造である。 指の細胞は出来ては死に出来ては消えつつ、しかし生きている限りは指の本数が変わったりせず定常な秩序が生み出されている。

 偶然を勝ち残った存在と、生じるべくして生じる存在という考えは両極のものである。「創発」という観念は「全体は部分の総和以上のものである」という言葉で表される。「一足す一は二にならない、二足す二は四にならない」という内容をふくむ。これは還元主義を超えた真理と見られる。「生命は全体として創発し、つねに全体として存在」するという考え方は、そのまま今西理論である。ダーウィン主義者は、生物を分子が集まった機械と見ることになれすぎたが、分子、化学物質を集めると、分子の集合体ではなく自己を複製し、進化する生命となることを創発理論はいう。さらに、そういった一方向(部分から全体)のものだけをさすのではなく、秩序は全体が自己組織化の表現として自発的に生ずるといった逆の考えをもたらす。
 進化は偶然の産物ではなく、自己組織化の運動であって、自然選択はその創発された秩序にヤスリをかける働きであるという。

 また、「カオスの縁」という秩序とカオスの相転移点も、進化に関わるキーワードとなる。目に見える自然界の現象が連続した状態ではなく、とある閾値があり断続した現象に満ちていることは論を待たない。秩序の安定した状態では、進化はおこらないだろう。しかしカオスの縁をたどる生物は未来の創造を担ってきたのかもしれない。

 この章は、「われわれすべては宇宙にしかるべき居場所をもち、それを神聖なものにすることができる。そして、ほんのつかの間、最善を尽くしつつ、たった一度だけそこに滞在するのである。」という文章で閉じられている。

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