6.ウォーレス

(Wallace) ウォーレスについては新妻昭夫氏による一連の重厚な著作・翻訳書があります。

 アルフレッド・R(ラッセル)・ウォレス(1823〜1913年)は、ダーウィン(のほうが14歳年長)と同時代、独自に自然選択説を考え出したイギリスの博物学者で、『マレー諸島』『動物の地理的分布』『熱帯の自然』などを著しています。ダーウィンと同じくライエルの『地質学原理』、マルサスの『人口論』から影響をうけ、自然選択説へと導かれたことは、歴史の共時性の例としてもよく取り上げられていますが、育種家による品種改良と選抜を、論証に用いた点で、理論に対する執念はダーウィンのほうが抜きんでているようです。今西錦司は、しかし、育種家を持ち出さなかったところにウォーレス(ウォレース、ワラスとも訳す)を認めています。確かに人為淘汰と機械論的な自然選択には「人間の意志」という点において理論的に隔絶しているのです。ダーウィンは「自然選択」というときに、生物同士の競争という意味に視点を向けていますが、ウォレスは主に(生物と)自然環境とのあつれきを考えていたという差異も指摘されています。ダーウィン論が個体差をもとに変異を論じているのに対して、ウォレスは当初、昆虫などの「種」の内部(分類上の下位カテゴリー)にすでにある「亜種」を取り上げ、その亜種と環境との(今でいう)淘汰圧によって種の分岐が起こるとしています。そのため、特にダーウィンの性選択(クジャクの美しい羽根は、雌が尾羽根の立派な雄を選びつづけた結果であるという)説には同意を示さなかったようです(この理由は、前述の人為選択と自然選択との哲学的相違と類似の異質性を把握していたからと思います)。

 唯物論を標じていながら動物による性選択を持ち出すことについて、その誘惑はよくわかりますが、哲学的には不可思議なことです。

 ウォレスがダーウィン宛に送った自然選択についての論文「変種がもとのタイプから限りなく遠ざかる傾向について」が、ダーウィンに『種の起原』の出版を決断させたといわれ、ダーウィンがウォーレスの内容を剽窃したとか、ウォレスをダーウィンに消された男であるといわれることも多いのですが、ダーウィンが自説を長年(20年)暖めていたことは事実であり、このことに関しては自分より若いウォーレスの名誉を気づかっていたようです。また、ウォーレスもダーウィンに敬服し、自然選択説を「ダーウィニズム」と呼ぶなど、この譲り合いの態度が、先取権の争いが多い科学史のなかで、美談の一つに数えられています(但し新妻氏はウォーレスが進化の法則を発見しつつ、ダーウィンに功績を譲る態度について、「しかし私としては、彼(ウォーレス)の謙虚さには度を超したところがあるといわざるをえない。」と書いています。実はウォーレスが進化論の祖となる可能性もあったようです→『神秘の法』(幸福の科学出版))。

 ダーウィンと大きくたもとをわかつこととなる点は、ウォレスが動物と人間(精神)との間に、覆いきれない間隙を見ていたところです。ダーウィンが人間、動物を貫く法則として自然選択を堅持したのに対し、ウォレスは人類に自然選択説を当てはめることを言い出したりはしましたが後年は拒否し、このことがダーウィンを戸惑わせることになります。ウォレスが唯物論的な思考によって曇った目からうろこを落とすきっかけになったのは、催眠術師や心霊術師との交流であったのです。目に見えない霊存在がおよぼす衝撃的事実が、良心ある科学者を未知なるものへの探求にいざない、以後急速にスピリチュアリズムへの傾倒を見せるようになるのです。

−−補足
 ウォレスが、超自然現象に触れたきっかけは、かなり早い時期といいます。以来イギリスの当時の知識人を熱中させた降霊会に出席し、後年「心霊研究協会」の設立に助力するなどスピリチュアリズムの普及もしました。人間の精神や知性にまで自然選択説を考えることを拒否し、最晩年には自然選択以上に、霊的で目的論的な創造力が進化を導いていることを記しています。1910年の『生命の世界』では、魂による進化、目的論が窺え、「あらゆるところで目に見えない力や運動がはたらいていることを感じとることができ、またそこから、進化の主要因たる崇高で強力な<指導魂;ディレクティブ・マインド>の存在を類推する」ために人間はあるのだということを述べています。
「神秘思想と霊的進化論」荒俣宏『進化論を愉しむ本』別冊宝島より−−

 ウォレスの著作『心霊と進化と』(潮文社)は心霊現象を、理論的にも科学的にも擁護されうるものとの証明をつらねた書であり、今となってはありふれたオカルト弁護論のようにみえますが、この霊的観点が、自然選択万能主義に歯止めをかけ、人間精神の尊厳を救ったといえるでしょう。ウォレスの考えとは逆に、現代の人間に自然淘汰(概ね人為淘汰である)を認めようとした動きが、いわゆる社会ダーウィニズムへと影響を与え、20世紀に暗雲を巻き起こすこととなります。


 ウォーレスによる進化論概説(『種の起原をもとめて(筑摩書房)』<新妻昭夫;著>に、2論文の翻訳が収録されています!素晴らしい!

サラワク論文
 ダーウィンの『種の起原』(1859年)に先立つこと4年、ウォーレスが1855年「Annuals and magazine of natural history」誌に掲載された論文「On the law which has regulated the introduction of new species(新種の導入を調節してきた法則について)」の内容について紹介します。サラワク(ボルネオ等西部の地名)で執筆されたため、その内容が「サラワク法則」とも呼ばれます。ライエルが『地質学原理』によって、今見る大陸や海洋が、ずっとその姿であったわけではなく、山や湖、海峡など、地質的変動が、過去何度も何度も繰り返して、今ある姿になっていることは明らかなことでした。では、そこにすんできたであろう生物はその変化に対してどうであったのでしょう。より深い考察では、「もっとも近縁な種は地理的に近接して見出される」のは何故だろうかという問いかけになります(ダーウィンも、アメリカダチョウの良く似た2種(レア・アメリカナとレア・ダーウィニィ)が近接していることに同様の疑問を抱いています)。そのヒントは、地理的な様々な生物の多様性と、地質的に立証される現生種に近い生物化石とにあるのではないかと論を立てます。

 ---「地上における現生の生命の地理的な分布が、地表そのものおよびその居住者の両方の、これまでのすべての変化の結果であるにちがいないということがわかる」---

 この論文は、生物の多様性を、種の分岐の歴史によるものとする画期的な内容をもっています。生物の空間的配置と時間的経路を結びつけて考えられていて、地理的隔離による種分化が既にあらわされているのです。結論として「あらゆる種は以前に存在していた類縁の近い種と空間的にも時間的にも重なりあって出現したという法則」を打ち出しています。その変化のメカニズムこそこの時点では説明していませんが、ある種(数種)は、(過去の)ある種に由来するという進化論をすでに用意していました。
また、本論文は、生命は進歩の階段を登ってきたのか下ってきたのかという当時の論議に対し、生物が徐々に変化してきた事実を端的に述べたものになっており、進歩も退化もサラワク法則が適応された現象の一面であるとしています。ダーウィンは、この論文を知ったライエルから「先をこされるぞ」と忠告されています。


テルナテ論文
 テルナテ島(マレー諸島、ハルマヘラ島の西)で書かれた「変種がもとの型から限りなく遠ざかる傾向について」(1858年)こそ、「サラワク論文」では述べられていなかった変化を説明する理論、自然選択(という言葉は使用していない)説に到達した論文であり、この草稿がダーウィンに届けられて、彼とその周辺をあわてさせることになります。

 家畜や栽培作物などは人間の保護下においてようやく生命を保ちます。例えば、普段食べている野菜なども、野生種から苦み成分(害虫から食べられないための防御物質)が少ない、種が熟しても落ちない、実が軟らかいなど人間にとっては有利ですが、概ね植物にとっては致命的な性質が選抜されています。ですから、栽培種を野生に戻すと、もとの原種に戻る傾向にあります。これは自然界にあって種は不変であることを示すように見えます。自然界でもときどき発生する変種も同様に、たいていは生存に不利な奇形であり、その系統はいずれもとにもどると思われます。しかし、ウォーレスは、家畜が原種にもどる作用と同じ原理によって、ある種から派生した変種が元の種から徐々に離れていく、と推察するのです。栽培種が原種に戻る傾向と、進化とを同じ作用で説明するのです。

 生存競争
 エサをより有利に獲得することと、敵からよりうまく逃げることとが、個体と種全体(種社会に通じる)の生存に最も大きく関わる要素です。ある昆虫はうんざりする程採集できるのに、ある種は心血を注いでもほとんど採れないという個体数の差は、この生存競争の結果と理解されます(この点、今西錦司のすみわけの理解と異なり、ウォレス(そしてダーウィン)は「数の論理」を優劣の基準にしています)。

 個体数
 食物連鎖の上位種(高次肉食動物)は、下位種より個体数がかならず少ないことが明らかです。各個体数の多寡は、その生物の多産少産とはほとんど関係がない(と述べている)。結局、個体数が多い種も少ない種も、種(個体)が多産少産でも、個体数が維持されているならば、1つがいから2匹以外はみな死に絶えることになります。個体数の多い種は、エサ(供給エネルギー)が多いからで、スズメ、海鳥などで認められる事実です
(ここで個体数の多い種として合衆国のリョコウバトがあげられていますが、約40年後自然界では絶滅しているのです!!)。結局、個体数が多いということは、エサをより多く獲得することと、敵からの回避がよりうまいというということであって、これは種の中の個体と個体の間(個体差による)におこることから推察して、ある地域の種と種の間(近縁種間の競争)にも起っていると考えられるのです。ここはポイントの一つなのですが、この推論の順序からすると、「個体差による生存競争」というのは本質ではなく、いわばお膳立てであって、ウォレスは、進化に直接関係する階層は「種」にあるとみています。個体間差よりも近縁種間の形態、習性の差を重視しています。しかし、新妻氏はやはり個体差を重要視していると受け取られており、「ウォレスがいかにダーウィン説に肉薄していたか」を示すための贔屓目に見えてしまうのですが、結局、判別つきにくい理論深耕の甘さが、ダーウィン論への引け目と関係しているのではないかと思います。)

 
個体差に注目する(ダーウィン論)というのは、三国志(突拍子もない例えですみません)でいえば、曹操の武力と、呂布の武力など個人的膂力を比較して適不適を論じるようなもので、種間差を論じるということは、曹操軍と呂布軍の、武装度、軍制、作戦、士気、兵站、将帥の資質、大義名分などを検討していることにあたります。歴史において関心があるのは、もちろん後者であるように、生物の歴史(進化)においても個体差ではなく、種の「ルール」こそ重要視されるべきなのです。構造主義生物学の主張も同様と思います。

 閑話休題。--食物の獲得と自己防衛にもっとも適応した種が、個体数において優勢を得るだろう。逆にこれに恵まれなかった種は絶滅に到る。種の個体数の多寡は、この両者の間に位置する。生物の個体数は、その産仔数に関わらず、エサと天敵の生存競争のふるいによって制限され、その種の形態と戦略の出来不出来に依存する。その出来不出来は、その地域に本来生存可能な個体数の比較によって定量される。--このように論を進めたあと、こうした近縁種同士の関係の見通しから、種内部の親種と変種
(今西氏はこれを突然変異種[個体差]ではなく、亜種[種と新種の差]と受け取っているのは正しい理解と思う)の間への問題へと応用しています。

 適者生存
 ある種の中に、エサの獲得や敵からの回避により有利(たとえばより長距離からエサを探索できたり、体色が天敵から見つけにくいなど)な変種が出現すれば、もとの親と同質のグループよりいずれは個体数を増やすものも出る可能性があります。とくに、地理的な変動や長期の干ばつ、氷河期などがおこり原種に不利に働く環境になった場合、変種への置換が加速されると推測します。

 「いまや変種が種にとってかわった。」サラワク論文では説明できていなかった進化の機構をこの論文でウォーレスは説明することができたのです。結局、ダーウィンの自然選択の要点である、@個体差、A過剰な個体数、B生存競争、C最適者生存の機構が、やや洗練はされていないとはいえ論出されていたといえるでしょう。Dの遺伝については特に触れていないのですが、「永続的な変種」という表現が遺伝を包含していると考えられます。個体差の遺伝様式を論述しなかった点をみても、ウォーレスは個体差をそのまま進化の原理とはせずに、種差へと一度論の階層を進めていることを支持しているように受け取れます。
 一方、ラマルクによる生物の意思をくんだ進化説に対して、機械的な説明によって反駁している点は、ダーウィン論と同等の視点です。先の論文を見てもウォーレスのこの時期の態度は観察事実から理論を帰納してゆく(一般的な)科学的思考を発揮しており、突然思弁的になるラマルクに距離を置いて見ていたのでしょう。他にもテルナテ論文には、適応に関しない形質の保存(中立進化の萌芽)、確率論などにも触れられていて、以降の進化論の足取りを原石の状態で書き留められているようです。

 ここでウォーレスは冒頭の問いかけに戻って、家畜や栽培種を野生にもどすと元の原種に戻っていく機構と、進化の機構がおなじ自然選択によるものという位置づけを再度おこないます。家畜や栽培種が原種に先祖がえりしてしまう理由を、種の不変性(進化の否定)によるものとするのではなく、進化の法則にしたのです。
 
ダーウィンにとって進化は、主に野生種を選抜(人為選択)して品種改良を行う方向性で考えていたのに対して、ウォーレスの進化は、家畜が自然状態で原種に戻っていくという逆の方向性を持ってしており、自然選択の使い方に大きな差が認められるのです。のちにクジャクの雄の飾り羽に関して性選択説をダーウィンが提唱した際も、ウォーレスは、本来のクジャクの羽色は派手な色であって、雌の地味な羽色は巣で卵を温めているときに目立たないための自然淘汰によって進化した、というようにウォーレスの自然選択の内容は、ダーウィンと違いがあるのです。

 「自然界にはある(略)変種がもとになる型から遠くへ、遠くへと継続的に前進するという傾向()があること、そして自然の状態でこの結果を生み出すのと同じ原理によって、なぜ家畜の変種がもとの型に先祖返りする傾向をもつのかも説明される」(テルナテ論文)  「<選択>の集積作用は、それが方法的かつ急速になされたものでも(飼育栽培下の家畜化を指す)、無意識的かつ緩慢だがいっそう効果的になされたものでも(自然選択を予想させる)はるかにまさった<力>であると、私は確信している。」(種の起原)
ウォーレス ダーウィン(下線は筆者)

 
 この「選択」の適用が似ていながらも両者で正反対であることも、ウォーレスの逡巡を招き、「選択」という言葉を駆使するダーウィンに対して控えめな態度をとらせたのかもしれません。しかし私は、ダーウィンによる人為選択と自然選択の哲学的混同は不条理であって、ウォレスに選択(淘汰)理論適用の一貫性を認めます。

 最後に、ウォレスの文は「変種が数においては優勢を維持するにちがいなく」「変種が頻繁に出現するという反論の余地のない事実」など、変種は最初から複数の個体を前提にしているように読めます。一匹の突然変異種から徐々にその遺伝形質を個体群に増幅させたように読める表現はありません。すると、テルナテ論文においては、変種が元の種から離れてゆくメカニズムは説明していますが、その変種がどのようにあらわれたかという点に関しては、ダーウィニズムと同様、突然出現するということで説明されていないと思われるのです。
 やはり、進化の第一原因として、精神的な一撃を入れなければ進化論が完成しなかったのではないか、結局、ラマルクのいう動物の内的感官なども捨て去ることはなかったのではないか、と思うのです。

 ---「第一に、宇宙に人間を超えた、発達程度を異にする知的存在がいること、第二に、その知的存在の中には人間の五感では認知できないにもかかわらず物質に働きかけることができるものがいて、現にわれわれの精神活動に影響を及ぼしているとの二つの結論に到達し、それを応用した場合に自然淘汰説だけでは説明できずに残されている博物学上の現象がどこまで説明できるかを、論理的かつ科学的に推し進めているところなのである。その”残された現象”と私が観ているものは例の『自然淘汰説』Contributions to the Theory of Natural Selection の第十章で幾つか指摘してある。」ウォレス『心霊と進化と』---

 上文で紹介した『自然淘汰説への寄与』(1870)では、人間への自然淘汰の適用を否定したにとどまったのですが(出版後これを読んだダーウィンは、再度ウォーレスの著に困惑させられ、苦渋に満ちた手紙を書き送っています)、さらに、後年『生物の世界』(1910)では、「植物の生産発達の状態には、必ずこれを指導統督する至高叡智の精神があることを表示し、そして、その徴証は、鳥の羽毛や昆虫の変態においてしめされるよりも、むしろ更に明瞭なものがある。」と、生物一般の進化にも、ディレクティブ・マインド<指導霊、指導的精神>の働きを認めています。エクトプラズムなど物質に影響を与える霊的存在を実証しようとしていたくらいの人であれば、進化を導くそうした存在も、全く念頭になかったわけはないと思います。

---「一種の「創造力」が実在して、物質にこれ等の不可思議な可能性を賦与し、また「指導的意志」が実在して、生物の発育を一歩一歩に誘導指示し、なお、確乎たる「究極的目的」が実在して、全生物界をして、過去の永き地質学的時代に亘り、その進化発展の長程を通じて、着々として謬ることなく、これに帰向せしむるものである。」ウォレス『生物の世界』---

---「かくして我々は、「生物の組織を組み立てる霊」とも言うべき一隊の霊群を認め得るのである。」ウォレス『生物の世界』---


 ウォレスの説を見れば、変種が元種を滅ぼして・・・というように、のちに社会ダーウィニズムが都合よく誤解したような過激な自然選択はありませんでした。種の形態と戦略によっては元種よりも(変化した)環境に適応し個体数を増やすものがあるだろうという種の発展や置換を考えています。今西進化論も、元種から亜種が分岐する際、調和的な共存を主軸としながらも、元種が滅びるような状況があることは当然理解しておりました。ウォレスが進化の単位を、今西のいう種社会のような構造・機能ととらえていたとするならば、両者の考えていた内容は近いものであったのではないかと思われます。

2000.1.
加筆数回 2005.1

(今西錦司の世界)

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