8. 自然学  

 分類学、昆虫学、霊長類学、生態学、人類学・・・そして山に登ることを通して、今西錦司が終始一貫問い続けてきたテーマが、「自然とはなにか」ということであるでしょう。その自然は、生物に淘汰を強い続ける自然ではなく、生物をつつむ大いなる地球世界です。1980年代、氏晩年の主著として『自然学の提唱』『自然学の展開』があります。そこでは、みずからの学問を振り返って、「今西自然学」と名付け、「自然学」を提唱しています。ただ、自然学の学問体系として「学」と銘打つには、この著作は対話が多く、教科書のように体系化されたものとはなっていません。今西自然学を順序よく学ぶためには、今までの著作全てを再構築し、自然学の体系書を著すことが必要です。しかし、「本当の自然が教科書であって、学問の方法などこれだけが正しいということはないのだ」ともいわれそうでもあります。まったくその通りかもしれません。
 

 今西さんから見れば、産業革命以来西洋社会から見られた自然、ダーウィンの見た自然とその説を受け入れたがった人々の見た自然は、当時の経済思想と、機械論などの流行に染まった眼鏡で見た、かえって擬人的な(しかも誤った)解釈の入った自然です。生物に主体性を考える今西学は、生物を生物としてみるありのままの自然観を基底とし、生物を物質や機械として扱うのでもなく、統計上の観念や研究室の中のものとして扱うでもありません。

自然学の対象

 ありのままの自然とは、歴史を含むこの地球をさします。ただ、今西さんの学問対象とする領域として、生物的地球をさします。彼の用語では、「生物全体社会」に相当しますが、といって無機物的環境を無視するものではありません。無機的環境まで範囲を広げてゲオコスモスという言葉で表現することもありましたが、これはガイア仮説のガイア、この唯一なるもののとほぼ同じものをさしているように思われます(以前、科学雑誌「SCIaS:サイアス」98/1月号に、進化論の系譜でガイア論の流れの前に今西進化論が描かれた図があり今西学がその先駆として扱われることもあるのです。
 

 さて、自然学を築いてゆくための土台、最も客観的な存在として、三重構造を原理におきます。すなわち、

 1) 種個体(自然のなかで五官によって経験できるものは、この生物の個体である。)

 2) 種社会(種の個体全体をその中に含み、主体性を持つ。種個体はこの種社会に帰属し、種社会の維持存続に貢献している。)

 3) 生物全体社会(地球上現存する全ての種社会からなる)
 

 であり、この三重構造は今西学の中で背骨にあたります。

 目に見える自然現象にある三つの秩序をもった構造単位は、全体と部分、個と全体という関係を持ち、この構造の中に全ての生物が含まれる。全ての生物の多様な営みの中に、今西はこの単純な三つの階層的な構造を見いだしたのです。


自然学の方法

 自然学に盛り込む要素は多い。進化論もそのひとつです。今西が取り組んだ様々な領域を取り扱うことが可能です。このホームページ全体でなぞっていることも、今西自然学と思います。ここでは、今西学の内容は他のページに譲って、学問の方法を少し述べておきます。

 今西さんは、自他ともに全体論者と語られていました。生物の個まで全体に埋没させようとしていたわけではないので、全体論として扱うには問題があるのですが、その学的アプローチとして全体論でも使われる「類推(アナロジー)」があげられます。

 普通学問のとる方法論は、「分析」です。以前より批判されてきた還元論(レダクショニズム)は、物事の対象を、細分化し、それぞれの要素をまた統合させて理解する方法をとっています。多くの批判が繰り返された今でも、この方法は成果が大きかったため磐石の信頼を置いている人は多いようです。部分+部分は元の全体であるとみる見方です。これはこれでいいでしょう。

 この還元論者にとって、種社会、全体社会は理解しがたいであろうと思われます。この理解には、アリストテレスのアナリシス(分析)に対して、プラトンのアナロジーといった方法を考えてみなければなりません。プラトンは人間存在を、洞窟の比喩でたとえました。直観・悟りといった経験はアナロジーの対象です。自然という人間をふくむ大きな入れ物に対して、われわれが理解できる方法は、その自然に身を沈めて「観る」という方法があるのです。個体は観察するもの。種は直覚するもの。二にして一のものです。
 

 私達が細胞であったなら、最も優れた細胞が分裂能力の劣る細胞を駆逐し、より優れた器官になり、隣の器官を痕跡にしてしまうだろう、などという説をたてていたかもしれません。しかし、様々な器官が個体の身体全体にとって恒常性をもち共存していることは、私達がヒトとして生物個体であるからできる見方です。私達個体を司り、よりよく歴史に導いている偉大なる存在を、人類がみいだしたなら、生物の見方、自然観も変わることでしょう。
 

 いや、私達の中の良心の小さな声に耳を傾けると、そこに大いなる自然、宇宙につながる扉が開かれている気がしてなりません。生命を知ろうとして個体一つを顕微鏡でみても個体以上はわからずに、かえってその生き物の中に周りに宇宙が入り込んでいることを感じることの方が、自然の真相に近づけるのかもしれないのです。今西錦司はその大いなる個性を越えた無意識と、対話をしつつ学問に導かれていたように思えます。今西錦司は、直観でもって、自然を知り、代弁してきた。流行の生物学には無関心に、ひたすら生物に関心を持ち、自然学を語ろうとしていたのではないでしょうか。
 

(つづくのか?)