今西自然学への道

 
物の無方向な個体差のうち、自然選択によってえり抜かれた性質が集団内に広まって行くことで、生物が世代につれて変化することを進化といわれても、私は信じません。生物が年月とともに形態を変えてきたことや、生き残った個体の性質が遺伝によって集団内に広まること自体は信じますし、そういったレベルの進化は現にあるでしょうが、それでもそれを認めるには「自然選択説」の「自然」の哲学的吟味をし直さなくてはならないと思いますし、今、目にすることができる鳥や花やムシたちが、すべて突然変異と自然選択によってえり抜かれてできたと考える思想には断固反対します。ダーウィンが思想家としても語られるように、ダーウィンの進化論にも、科学として残される領域と、生物の見方の一つであるという嗜好性の強い部分が多いにあります。思想という土俵であれば、日本刀を侍の魂と観るか即物的に物体と見るかという違いに過ぎず、科学の問題とは一応別に考えてもいいと思います。そのうえで、生物を地球の歴史を共にした同胞と観るか、偶然の産物と見るか、それは自由であって、ただ私は、今西思想から導かれる生物像のほうが、私たち人間にとって優しく、暖かいもの、幸福なものであるという主張をします。思想も何を取り込むかは自由ですが、それを実践(思想に沿って考えることも含む)したときに自己に責任が生じます。

 通常の進化論を頭から信じている、というか、もうそれ以外にないだろう!とほかの進化まがい説を敵視している人にとっては、種は変わるべきときが来たら一斉に変わる、という今西進化論の標語は、神秘がかっており、科学の場で話題にのぼること自体嫌悪しているようです。たしかにその気持ちはよくわかります。その気持ちはどのように解消できるのでしょうか。

 ニュートンも重力を一瞬で伝わる遠隔作用で説明し、神秘的だという批判を受けています。近代科学発祥の際、ヘルメス思想などに代表される神秘思想を、科学者たちが代弁しようとしていた情熱は、教科書にはまず載らない内容なので知られていないのです。神秘的だということは、別に現象を説明していないということにはなりません。ただ今西進化論が数学的論理として成熟していないという批判は妥当です。

 西自然学は、学問的探究の方法に「直観」を用い、「分析」という方法とは異なるアプローチを示しました。分析という方法は、科学を実際の力とし、観測機器を火星にまで送るような貢献をした立役者ですが、ものをわけて考えるということで、デカルトの最初の、精神と物質を分離した根本分析から、すでに一つの限界を有していたものとなっていました。デカルトにとっては、精神と神こそ自分の哲学に不可欠な要素であることは当然であったのですが、分析された「物質」は、目的論を廃した機械論的運動法則には従順であったものの、生物の進化因はすでに取り除かれていたのですから、今後何百年研究しても、物質的領域の世界から科学的な進化論は出てこないことになります。
 故竹内均さんの『哲学的思考のすすめ(PHP文庫)』では、デカルトのいう神は、偉大な理論物理学者である、という解釈がされており納得しやすかったのですが、この例えをつかえば、デカルトが最高の原理に想定したのは物理学であり、このプログラムに沿えば、生物の研究も、生物身体(DNAやRNAも含む)の物理的探究、機械論的解釈で終始するのは当然かもしれません。

 この物質的世界と一度取り去られた精神とを同一のものととらえ連関させ、自然は精神の法則に従属する自律的な動的なものと捉える自然観は、シェリングなどドイツ観念論哲学者によって構築され、進化論が科学される土壌はいったん形成されたのですが、このロマン主義科学論は内外に問題をはらんだまま、一部の科学分野に影響を与えながらも廃れてしまいました。

 
西錦司は、生物と自然とをもとのままの一体としてつかむ方法を探究するため、晩年、自然学の提唱を目指しました。自然科学が意識((我思うゆえに)我あり)を支点に分析を手段とする探究方法とすると、無意識による「直観、達観、大悟一番」で自然を理解する方法を述べています。普段日常の意識では、外界の刺激を受けて空間内に物質があることを、視覚触覚によって認識していますが、認識を意識しているのではなく、主客未分、主客合一された状態で意識そのものになって物事を理解している状態を体験できることもあります。

 こうした体験は 『自然学の展開』「山との対話」の中に、「山の持つ浄化作用」という節があり、山の中にはいると、出家し無我修行を行う僧侶とどこか共通な体験をしているようだということが書かれています。またどこかに、峠などで真っ白い向こうの峰が眼前にせまると自然と拝みたくなる気持ちのことが書かれていて、アニミズムに近い状況ですが、山では、大いなる自然に対する自己の無我感を感じるのかも知れません。このサイトでは山登りに関する内容は一切触れずにきてしまいましたが、あるいは自己が自然になる体験を、今西氏は登山を通じて会得していたのでしょう。こういった心境は、学者よりもむしろプロのスポーツ選手や芸術家の得意とするものかも知れません(→補足)。

 
うした主客未分(主観と客観の区別なき経験)、心身脱落の状態になったとき、なぜか「ありがたい」気持ちになることが書かれています(前掲書「自然学へ至る道」章)。なぜ今西氏の説く自然が、共生、調和を重んじているかといえば、この感覚をそのまま表現しているからに違いありません。大いなる自然に没頭し包まれたときの感覚を体験すれば、自然の機械論的解釈は真実味を失った色あせたものとなり、何が真実かを悟得してしまうのでしょう。このとき、我々の精神と自然が共通の場にあることを理解するでしょう。精神と自然が、全く異なり一つも重なる性質のものがなければ、互いに通じることはけしてありません。しかし、主客未分のありがたい状態では、どちらが精神で自然かはわからずとも、自然といわれる客観の中に精神である部分があることが反省できるのです。シェリングが200年も前に「自然は眼に見える精神であり、精神は眼に見えない自然・・・」と言うときに、自然という領域に存在する、人間精神と通じる精神性を確実に認識していたのです。

 今西自然学は、この精神性を含む自然、主体としての自然、創造する自然、動的自然、産出する自然と、近代科学の自然、産出された自然の融合を目指し、より広い意味の科学を目指したものと考えます。そうであってこそ、『主体性の進化論』の「主体」の在処が理解され、「進化は宇宙のデザインに従って動いているものであろうか(前掲書;進化論の現状)」と問いかけの形で書かれていることも、創造する自然のことを想定していると理解できるのです。

 この精神の科学的探究の方向には、数学的解釈は大いにすすめらるべきものと思います。ゲーム理論など最適値をシミュレーションすることもありますが、偶然による試行錯誤のうちにその値になったのか、結果を見通す精神の法則に従ったのかの捉え方の違いが問題なのであって、同じものの異なる方向からの探求であり、数学的理解自体は歓迎すべきものと思います。

ダイコンの葉

 効率的に太陽の光を受けるような幾何学的展開を見せている。

これを数学的に解釈することに関して、自然選択説でも今西自然観

でも同列に有効。

 ただこれを偶然の産物と見るか、自然の精神の働きと見るかは、

自由である。前者の見方は、科学哲学として構築されているが、

後者は今後構築してゆかなければ、次世代の科学は先細りになると

思う。

 

 かつて神学から人間性を解き放ったように、生物も
機械論偶然論から、

解き放つ「生物ルネサンス」が期待される。


 今西自然学は、主客未分の純粋経験の門をくぐることがその理解への第一歩なのですが、その方法論、修行論がとかれていないことが理解できる人を狭めているように思います。
 これは学校で習うようなものでなく、達人に弟子入りして体得するような性格の知であるので、今西の自然観というのは体験していない人から批判されるべき要素はもっています。しかし、それが間違いであるということではないのです。その体得の方法をおざなりにして、今西批判者を批判するのはまた心無いことなのかも知れません。私は「自然」に包まれる優しさを、多くの人に知っていただきたいとは思っています。

今西錦司の世界
2004年4月

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