高く登れば遠くまで見える


 「今西自然学への道」では、自然と自己とが一体になる感覚のことや、こうした経験は学者よりスポーツ選手のほうがよく体得しているのではないかということを書きましたが、補足します。学者でも、読書百遍、意(義)自ずから通ず、というような、今までわからなかったものが、ある時ふと全貌が見えるような体験もするでしょうし、何事も没頭して努力しているときに、人の認識は急に開けてくるものがあるようです。

 このコラムでは、直観とか、主客合一の感覚にも、段階があり、その質を高めなくてはならないことを書くつもりです。
 今西氏も、ずっと適当な杖をずっと探していたとき、ある登山中にふと何かひかれる思いがして道をそれてそこへいくと、ちょうど探していた手頃な木が生えておりそれを杖にさせてもらった、という話を、幾たびか書かれていますが、それは「安物の直観」で、「種の棲み分け理論」を天啓のように知った直観は本物の直観とも書いており、直観にもレベルをつけています。

 自然に包まれ感覚や、何か生き物との交流を感じたりすることは、普段誰もが経験するようなことではないのかも知れませんが、それでも今西氏の言葉を借りれば、安物の直観ということになるでしょう。より深く心を探求しつつ、自然や学問の理解を努力して探求しつづけることで、より高度な認識が得られるのだと思います。

 仏教に「蛇縄麻(だじょうま)」という言葉があったと思います。道に落ちている一本の縄なのですが、疑心暗鬼や被害妄想で乱れた心境の時に見ると、それが蛇に見え恐怖し、平常の時は縄に見え、より落ちつき深い心境の時には、縄の素材である麻の一本一本まで見える。客観的には同じ現象も、心境の違うときや、心境の違う人が見ると、それが蛇や縄や麻にみえるなど、心境に応じて正確さや情報の質が変化することを例えたものと思いました。
 あるいは、一念三千、人の念いが即座にあの世の天国地獄に通じてしまい、同じ心境のものを呼び寄せてしまうようなものでしょうか。

 後期フィヒテの哲学でも、人の心の進化を五段階にわけ、その心境ごとに観える世界(自然;非我)が異なることを説いていましたし、シェリングの哲学も、大きくは三段階の精神の高まりを考え、それに則して自然にもA:力学的世界、A2:電磁気学化学的世界、A3有機的(全体論-目的論的)世界の三段階あることを示しています。それぞれは独立しているのではなく、Aの2乗、3乗と高次元となるにつれ、下位世界が従属したものと映り、世界を生命にあふれた合目的的なものとして見える人にとっては、機械論は包含された一部の世界に見えます。


 世界を、力学的法則の統べる世界としか見れない人は、そのようにしか見えないと頭から信じ込んでいる心境だ、ということになります。力学+電気生理的、化学的法則が治める世界と信じる段階の人にはそのように、物理学+化学+合目的的生命の法則の統治する世界と見て取れる人にはそのように見える、ということです
(モノーがある時自分の考えを突き詰めて考えていったら、自分がまるで一分子のようになって動いていくような感覚に襲われたと、何かの書籍で読んだ記憶があるのですが、この記憶の通りであれば、モノーも神秘的な経験をしています・・・おそらく仏教では地獄とよぶ世界でしょうが・・・)
 
 自然との一体感を経験し、幸せな感覚で満たされることは、大切なことですが、まだ自然哲学への入り口であり、より永い、精神の高みを目指した道のりが必要であるということを、このコラムで補足したくてつくりました。かつてのロマン主義科学衰退の反省を踏まえて、学としての確立には、自然霊や動物霊に翻弄されない、根気のかかる基礎固めが必要なようです。

(今西錦司の世界)
2004.4

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