0. はじめに

 あまり聞きなれない「浄福」という言葉がタイトルに使われています。「清浄なる幸福」という意味でしょうか。たとえば教会の頂窓を通した光に包まれ、しがらみの塵芥から浄化された静寂で透明な幸福感が感じられます。「ブランドのバックを安く手に入れたのよ」とか、仕事の合間に一服の茶を喫して、「あー幸せ」というような内容の幸福ではなく、ジョバンニ(銀河鉄道の夜;宮沢賢治)がさがしていたような「ほんとうのさいわい」を幸福と呼ぶとするなら、この本のタイトルも「幸福への手引き」というようなものとなるとおもいます。あるいは、「天使となるために」という副題が似合うように思います。表紙も美しい平凡社版の帯には「もう一つの精神現象学」というコピーが書かれています。


 原題は「Die Anweisung zum seligen Leben order auch die Religionslehre」であり、後半は「宗教論」と訳されます。幸福と宗教とは絶対に切り離せないものであるのです。神や信仰は幸福そのものですが、疑い深い人のために、知で一つ一つ足場を固めながら、信仰へと誘う哲学も必要とされたのです。この『浄福なる生への導き』はフィヒテ44歳のベルリンでの講演内容を公刊したもので、有名な『ドイツ国民に告ぐ』の講演(1808年出版)より1年前のことです。難解といわれるフィヒテの著作の中で、本書は一般向けで、聴衆である一般市民(学生や主婦もいたであろう)を相手に、君たちを真の人間へと導かずにはおかない!という熱意にあふれたものであるのですが、それでも、なかなか難しいのです。

 ここでは、この本を手がかりに、人が天使へと近づく方法をたどってみたいと思います。もちろん、念頭においておきたいことは「自然哲学」です。しかし、回り道のように見えながら、実は心の領域を探求することが、自然の探求の近道でもあると思うのです。後に思想上では対立するためにその相違点が論点となりますが、シェリング自然哲学がフィヒテの哲学を一度通ったように、自然を哲学するためには、どうしても「自らの心」、もっとも身近で、もっとも自分自身であり、不可解でありながらも、その探求が義務付けられ、自らが探さないといつまでたっても誰も探してくれない「自らの心」を哲学しなくてはならないのです。

 自然の探求には、顕微鏡や望遠鏡を磨き、DNA解析や加速器を操作するそのスキルを上げるとともに、自らの心を研ぎ澄ます、そのスキルをも向上させてゆかなくてはなりません。天使のような至福の心を持ったとき、自然は今までにない様相を語りだしてくれるはずです。

 「今西錦司の世界」でも「今西自然学」を紹介しましたが、そこへと到る方法は、今西錦司は天来の才能でもってあたり、身近に接した人しか体得できなかったでしょう。その方法論を、ドイツ観念論に求めるのはこっけいなことかも知れませんが、フィヒテやシェリング−ヘーゲル−西田幾多郎−今西錦司とつなげば、あながち的外れなものではないのではないでしょうか。

 自然科学とその探求方法では、時間の中に住む’へび’全体は理解が非常に困難です(下図)。ただし「輪切りのへび」の構造を調べることにおいては比類なき威力を発揮し、その限界つきの成果については普遍性をもっていました。だいたい現在にむけて、科学に対する哲学上の警鐘をならしている方がいたら、この「限界つき」ということを忘れてはいけませんよ、という内容が多いのです。実験とは、この「輪切りのへび」から組み立てられるところの仮説を、この隙間が移動した未来にも相当できるか否かを確かめることです。
 自然哲学はこれとは異なり、時間の壁を取り払い、現在を生きる自我を滅却して、へび全体を直覚することです。知的直感ともいえるこの方法で自然を捉えることができれば、確かにこれは真理である、という確信と悦びは強いのですが、それを学問化し共有させる道が困難です(簡単であればシェリングはニュートンくらい名が知られているでしょう)。
 ですから、ここでは「自然哲学」ではなく、そこへ到るための回り道であり近道を、「自然哲学の小径」としてつくっていきたいと思います。

 時間の中に住むへびって、深い意味はありませんよ! 



時間の中に住むへび(上) と
可視的な輪切りのへび(下)

シューヴェーグラーの『西洋哲学史(下巻)』(岩波文庫)という本に、フィヒテの詩が紹介されています。
やはりこの詩がフィヒテの思想をよく現していると思うので、ここでも紹介させていただきます。

「永遠に一つであるものが
 わがいのちのうちに生き、わがまなこのうちに見る。
 神のほかに何ものもなく、神はいのちにほかならぬ。
 蔽いが、汝の前にかけられている。
 汝の自我こそそれだ。亡ぶべきものは死ね、
 神のみがお前の努力のうちに生きるために。
 洞見せよ、この死よりもながらえるものを、
 その時、この蔽いの蔽いであることが見え、
 そして汝は、蔽いなしに神のいのちを見よう。」

(もちろん「亡ぶべきものは死ね」とは執着を取り去る行であって、自殺の勧めではけっしてありません。かえってそのような迷いを取り去れということです。)


2003.10


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