直観と自然


 『行為的直観の生態学』(今西錦司;京都哲学選書19)に、「直観と自然」という章があります。わずか2ページの内容ですが、ここには自然観の形成に関する示唆が含まれていると思いますので、少しご紹介します。
 今西自然学の方法について、直観によって自然をとらえる大切さが説かれていましたが、具体的にどうしたらその直観を得ることが出来るのか、あまり詳しく今西さんは書き残していないように思います。ただ、山を歩くこと、自然にどっぷりつかることなど、自然と触れる時間面積をとることが大切なことは伝わってきます。
 この章でも触れられている所はわずかであり、方法論といえるものではありません。

 (直観のいい時は)
「まず身体が―とくにその感覚が―せいせいと冴えきっていることが必要であり、そのうえいっさいの雑念をすてて、その身体を環境にゆだねることが、できた日であるようにおもわれてくる。ところでこうしたことは、四六時中意識が過剰にはたらき、あれがしたいとかあれがほしいとかおもってくらしている、現代人の生活とは、およそ反対なことばかりである。」

 「では、どのようにしたら、各人にまでもう一度、直観という能力を恢復さすことができるであろうか。方法はいろいろあるだろうけれども、これも私の経験に徴していうならば、なにはともあれ自然にかえれ、である。それが山登りであっても、魚釣りであってもよいから、とにかく自然にひたり、自然にとけこむことによって、過剰になった意識と欲望から解放されたならば、それと反比例して、直観力はおのずから充実してくるだろう。」

 とあります。私はとくに山登りや魚釣りのように、野山へ出かけることが不可欠な条件とはならないと思っています。鎌倉時代の明恵の話でも、瞑想中、「軒先の鳥の巣をいま蛇が狙っているから追い払ってきなさい」と語ったため、弟子が見に行くとはたしてそのとおりの状況であったという話を聞いたことがあります。透明になった心境で、場所は離れていたとしても、蛇の虎視眈々と獲物をねらう邪気か、雛のふるえる心が、ダイレクトに上人に直覚されたものと思います。明恵は「修行をしていれば誰にでもできるようになることだ」と言ったといいますから、やはり、「過剰になった意識と欲望から解放された」心境が、自然との交流にも大切な条件となっているように思います。研究室に閉じこもって電子顕微鏡を眺めていたとしても、おそらく透明な心境で対象物の美に心奪われて眺めて続けているとすれば、こうした自然に触れることができるのかもしれません。

 こうした内容について、今西氏の業績を認めることのできない方々は、きっと歯牙にもかけないのかもしれませんが、翻ってこの直観を、「学」としての原理として体系を立て、客観的に理解されるよう途すじをつけるにも相当の知的努力が必要なのではないかと思ってしまいます。

 執着から離れかつ直観を鍛える方法は、仏教的にも、キリスト教的にも、哲学的にもいろいろな方途はあると思います。
 
 「自然」というものを精神的にダイレクトにつかんだ経験の持ち主が、数多く現れて、なおかつ客観的科学の手法でその自然を語ることができたなら、今西さんの「変わるべくして変わる」という命題も、理解される時代が来ると思います。

2004.10
(今西錦司の世界)

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