フィヒテ・シェリング ノート  このページは、サイト作成のためにまとめたノートであり、文章は分かりにくいと思います。ただ単語が多いため検索にはかかりやすいと思い掲載しました。ここから、ぜひホームへたちよって下さい。

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フィヒテ(1762-1814)

 フィヒテは自我の運動によって、認識不可能な物自体を克服しようとしました。永久に惑星が回り続ける時空間は、自我が善を求めて活動する世界より低い次元であり、前者が後者につつみこまれる関係であることを述べました。
 なぜなら、実践する自我がなければ、科学法則のはたらく世界もまた、経験されることもないからです。ここにおいて、人間とは必然的な法則から制限をうけた不自由な存在ではなく、自由な存在であることを見出すのです。

 受け身ではなく実践する自我は、自分を自我であると宣言します。各個人にとって「我あり!」とともに世界は産声をあげます。すると必然的にその自我は、すでに宣言する自我とは別のものとなり、自我ではないことを同時に宣言することとなります。自我の宣言によって、自我でない自分の対象の世界を生み出すこととなります。自我宣言という行為が起こり、その結果、存在が現れてくるのです。その存在は、非我であるのですから、自我は自我である、といって把握しようとした自我は矛盾に陥ります。しかし自我はあくまで自我でなくてはならないので、自我の働きに抵抗をおこす対象を乗り越えて、自我=自我の統一の実現を目指します。こうして、魂は無限の活動を行うのです。

 こうして矛盾に見舞われ阻害される自我は、絶対的な自我ではあり得ず、有限的な我々の自我であるのです。自我は自我であるという宣言を、成就できるものは、アルファでありオメガでもある絶対者以外にありません。しかし有限的自我も、自我=自我の宣言を守るよう行動を続けるということは、その統一をなしている絶対的自我を理想として、その実現を果たすものであるのです。こうして私たちの魂は、絶対者を目指します。

 カントのところで例えた時空という白紙は、あらかじめ与えられているというよりは、実践的自我の運動によって生じた、自然を映すスクリーンであったのです。スクリーンをひろげて、もやのなかに突き進んでゆくと、スクリーン上に様々な映像が、浮き出てくるといったように、私たちをとりまく自然は、私たちの自我の運動によって現象化され経験されていたのです。もちろん、それら客観世界である自然は、個人の有限的自我が生み出すのではなく、絶対的自我が生産的構成力によって、有限的自我の道徳的完成を導くために生み出した非我であったのです。この絶対的自我が、いかにして自己自身を飛び出し、自己に対する非我を創り出したかという問いは、シェリングの出発点となります。
 
 人間である有限的自我にとって、それをつつむ絶対的自我は理念でありながらも、経験によっては見出すことのできない存在であり、実践によってのみ到達できる。そのため、フィヒテにとって現象としてあらわれてくる自然とは、人間が、善意志を実現するための手段であり、その目的の前に横たわる、乗り越えるべき存在にあたります。しかしフィヒテも、自然を単に機械論的に扱ったのではなく、自我の探究において知り得た自我性を、可能な限り自然に移し入れることを考えます。そして自然の根底にある、万有引力から、化学的親和力、植物霊、動物霊、ついに人間へとたちあらわれてくる存在を、あくまでも自我による概念化によって導くことを考えています。

 フィヒテにとっての関心は自然の哲学以上に、人間の道徳的な善意志であり、それが自然を含めた世界の存在の根本原理となっていました。経験できる感覚的な欲求に耳をかすことは、人間の不自由であり、本当の自由とは善意志に従うことであるのです。カントが「正義は成就されよ、世界は滅ぶとも」といった言葉を追求した哲学を実らせたのです。

 このサイトでは、主眼に自然哲学をおくため、フィヒテの詩を挙げて(シューヴェーグラーに倣って)、ここで先へと進もうと思います。
「永遠に一つであるものが
 わがいのちのうちに生き、わがまなこのうちに見る。
 神のほかに何ものもなく、神はいのちにほかならぬ。
 蔽いが、汝の前にかけられている。
 汝の自我こそそれだ。亡ぶべきものは死ね、
 神のみがお前の努力のうちに生きるために。
 洞見せよ、この死よりもながらえるものを、
 その時、この蔽いの蔽いであることが見え、
 そして汝は、蔽いなしに神のいのちを見よう。」
  
 フィヒテが探究をはじめた有限的自我が理念として到達を目指している絶対的自我。すると絶対的自我の存在は、有限的自我や、有限的自我が経験する非我であるところの自然の根拠になっているのではないでしょうか。自我の活動のまだみぬ先に、絶対的自我が存在せざるを得ないとするならば、その絶対的自我から世界をみたらどのようになっているのだろうか。魂の活動を、絶対者まで理念の中で追求し、そこから折り返してくると、どのように神は世界を創られたのであろうかという、自然と歴史についての探究が芽生えてきました。すなわち、シェリングの自然哲学の登場です。



シェリング(1775-1854)

 フィヒテも、自我の活動によってどうして普遍的・客観的な自然が産出されるのかということを考えました。21世紀を生きる自我によって、逐一、地層の中の化石を産出するということは、いくら思考上否定できないとはいえ、信じがたいものです。そこで普遍の産出者が、絶対的自我→絶対者として登場することになりますが、あくまで自然は自律的な「産出するもの」ではありませんでした。カントの判断力批判のほうが、まだ生物の合目的性を認めるに論拠となりえます。

 シェリングは、自我宣言をする以前の無意識の領域を考えます(この時点でもうカントの近代科学の領域と精神の世界との壁は、物自体へと探究する精神を押しとどめることは出来ないものとなっています)。自我宣言をする以前の精神が無意識の世界へ生み出してきた遺物こそが、非我であり自然であるというのです。この精神は、自我宣言をしていない時点のものであり、すなわちまだ個人的な自我ではない、人間以前の精神なのです。個人的な精神ではないということは、全人類にとっての共通の無意識であり、それによって自然が客観的であることが説明されます。私たちは自我宣言の後に、意識を持つわけですから、それ以前の無意識のときの産物を憶えてはおりません。そこで、学問とは、意識的な自我によって、この無意識の始めから、幸福な自我宣言をするに至った精神までを、今度は意識をもちながらもう一度たどることなのです。こうして、フィヒテように自我が、そのつど非我を創造するのではなく、すでにある客観的世界の存在を認め、自我がかつて創造した無意識であり人類共通の精神の遺跡を、自然として経験することを学として説明を試みたのです。

 自然はどのように考えられるべきでしょうか。やはりシェリングも、自我無くしては自然が認識されないことを説くことはフィヒテと同じです。しかし、その自我の誕生以前のことも考えるのです。我在り!と自己を自己ならしめた精神は、主観となったと同時に客観であるのです。観る自分が観られる自分となる。やはりこの矛盾の解決、主観と客観の振動が、自我の運動となることはフィヒテと同じなのですが、なぜでは、主観、客観と違うものが結ばれるのであろうか。するとそこに、等しいものが結びついている構造が表れてきます。自他一体の愛が、結びつけあうことを知るのです。

 先に述べたように、フィヒテによりて、人間の有限的自我から出発し、絶対自我にいたる活動が、「知る」ということであったのですが、シェリングはその無限的な自我から歴史を回転させたのです。主はいかにして世界を創造したか、その神話を表現してみたいということが自然哲学なのです。

 すべての始まりの無限的な主観は、主観であることを絶対にやめない主観であり、客観になりえない主観、それを他者に把握されることの不可能な絶対的な主観です。主観であるということは、「ある」のですが、客観ではないため何かの対象となることはないので「ない」ともいえます。この「無」とも道教の「道」ともいえる状態が、あるとき意志により「有」に転じますが、主観はあくまで主観であり、この「有」は客観化に屈せず再び主観へと現れます。無からの宇宙の創造は、これを唯一のものとして、そして宇宙は無限の運動を繰り返すのです。
 こうして第一原因者から、「有」すなわち神のうちなる自然が表れてきます。この発生は、ピストルのように突然に偶然とも、憧憬とも、意志とも、神からの堕落とも受け取れるのですが、ここでは置いておきます。  
 ここにカントに萌芽があった、歴史化する自然、宇宙があらわれてきますが、現代宇宙論における、無のゆらぎから始まる宇宙の姿を重ねる方も多いでしょう。

 ドイツ観念論の中には、宇宙の魂とでもいうべき絶対者が、自我宣言を行い、全宇宙を創造したという、巨大なロマンが流れているのです。万人に共通の理性の神話を描こう!その非我の海の中に、自我宣言をおこなう人間が生まれ、非我を滅亡させ、純粋自我をめざし無限の活動をはじめるのがフィヒテの世界観であり、非我と自我とは絶対者のうちの同質のものであるというのがシェリングであり、そしてヘーゲルは、すべてが絶対者と関係をもちつつともに活動してゆくことを述べました。

 この生み出された有限的存在により、「一」世界であった第一原因者と「一」として生み出したはずの有限的存在との「二」なる存在となり、「一」はいまや「二」となり「一」ではあり得なくなりました。この創造された客観は、そのままで物質ではなく、やはり精神なのですが、物質の素材となります。無限なものの写しとして創られた精神は、実は無限者である絶対者によって制限された、絶対者のうちなる精神でありました。もともと無制限を理念として創られた精神は、ここで自分の制限性を認識します。精神は本質的に無限なるものでありますが、無限に広がりそこに抵抗するものが何もなければ、意識も起こることはありません。無限でありつつ、有限であることが、意識と抵抗する存在(客観)を生じることになります。観るものと観られるものは、この抵抗の生じるところに生み出されます。

 さて、無から「一」が産出されると、「無」と「一」の「二」となりますが、その「無」は対立するものがある以上すでに最初の無とは違うものとなります。すなわち運動の順序によって、もとの一から「二」となった状態を含め、いまや世界と歴史の中には「三」が生まれます。主観であった「無」は「一」を客観とみなしているうちは主観でありますが、もとの無を振り返ると、自身が客観であることになります。そこで、「無(であったもの)」は、無限にもとなる絶対者へ結びつきたいという愛の活動をはじめるため、自己を無へと向かわせると同時に、自己の中の客観性をすでに客観であった「一」と融合して、次のものを生み出すのです。このように精神は、生み出す客観を無限に産出してゆくことになります。

 このときの無限の活動をはじめる「無」は光です。無としての第一原因者は、精神としての自然を生み出すと同時に、自らは純粋に観念の光となり、もとの無から、自由な光と、制限をうけている主観としての自然が生み出されたのです。そして光が主観となるときは、自然は客観となり、この二者の互いの衝突が、無常の物質を生み出しているのです。主観はつきることなく続々と、光としての主観を客観世界におくりこみ、完全なる客観を生成するまでその活動をやめないのです。客観としての物質は、精神的な光が次々と客観世界に注ぎ、客観化されてゆくのに無抵抗ではいられません。それが、自然における、磁気的、電気的および、化学的作用であり、たえず変化する物体を説明するのです。しかし、まだこの時点では、物質性は完全には失っていないのです。

 もうひとつ高い次元において、物質とこの磁気的、電気的、化学的作用は、精神的な光により統合され、生物の精神となります。生物にいたり、物質の維持という目的はなくなり、物質も、諸運動作用も、生物に奉仕するものとなっています。ここでは、カニの甲羅のような化合物にも還元できる外骨格の彫刻も、精神の光の過去を刻印したものとしてあらわれています。
 
 この物質、化学的作用、生物(有機体)のすべてが光と、精神としての自然の交わるところに存在しています。その自然を、自然として観ることのできる自我=自我といえる存在が人間なのです。そして、人間に対して、自然から立ちあらわれてくる観念的な情報、人間の光と自然の光が抵抗する衝突点こそ知であるのです。

 自然哲学は、客観的な自然を、無限な絶対的自我の働きと、有限的自然精神のあいだに生まれる制限によって生まれるものとして捉え、人間的自我になっていない無意識の精神を探究しようとする試みであります。

 再度、タブラ・ラサのスクリーンを持ち出してきますと、フィヒテにおいては自我の運動によって、物自体の霧に生じる仕切りが経験のスクリーンであったのですが、シェリングでは、自我と経験の彼方にある自然の精神との衝突よってスクリーンが形成され、映像が投射されていたのです。それは全世界の知であるのです。無知の知とは、もちろん個人的自我の産物ではなく、全人類の精神の光と、全宇宙の光の照射しあう、まったき全世界なのだと思います。

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