シェリングの『学問論』岩波文庫の第一講「学問の絶対的観念について」を自分なりにノートとしてまとめたものです。学問や教育の本質は、真理の探究です。「真理の核の部分には、ほんとうは宗教的思想や哲学があるのですが、いまの日本の教育は、その核の部分にまで到達していません。」そんなことを考えながら、まとめてみました。


学問の絶対的観念について
 


はじめに

 現代の教育には諸学問のあいだに、相互の連関が失われている。義務教育から科目によって、学ぶ対象が分断化されている。それは専門家を輩出するために必要な学問の一つの正しい道に違いない。しかし、学問の中心にあるべきものがない。これは今でいう生活科などの総合学習やコア・カリキュラムなどの技術的な統合といったもので補えるものではない。
 個々に専門化された分野については、現代教育において非常な発達した成果を学習できる。しかしそのまえにこれらの諸学問が連関している全体を捉えなければならない。しかしこれは大学の一般教養などでは普通教えてくれない。
 これは、誰から与えられるか、それは、自分自身であり、同じことではあるが、守護霊の導きによる。これに導かれて、人は自分が学ぶべき学問と、その学問の向かう普遍的全体を知る。

学問的真理の根本

 それがなくては一歩も知育の進むことのできないある一つのものがある。それはただ「一」なるものである。一切の知識を含んで、ただ「一」である無条件の知識の理念である。

 この知は、観念的世界では様々なレベルで分岐しているが、はかりしれぬ智恵の樹の幹である。それは一切の知であるゆえに、単に直覚するのみであり、それ以外に到る道はない。その他の一切の学問は、そこから流れる知の通路にしかすぎない。現在に生きる愛知者の使命は、これら諸学全てを一なる観念的なものへと同化させることである。
 

 (智恵の樹;上の現象界に現れている銀河系から無機物まで別々のものに見えても理念界では一つのものが分岐した姿)

 こうした観念の智恵の大樹は、現象的諸学問の奥に横たわっており感性界に縛られた目では見ることはできないが、ときどきその荘厳な光の泉を見出し、くみ出しえた分野がある。

 たとえば幾何学の観念性、物理学などである。

 しかし、こうした観念世界と、可視的な現象世界は全く別のものではなく、同一のものとして捉えることが、絶対者、唯知識者の望むところでもある。我々は絶対者そのものを見ることはできないが、それを愛すれば「愛」として、知ろうと求道すれば「知」として認識されるものである。我々にとって、絶対者とは「愛」であり、また「知」そのものである。この知識によって、他の全ての知識は絶対者のうちにあり、あらゆる学問もこの根本知と関連を持ったものであり、そうでない知識は本来実在ではない。

 個別の学問に、精神をこめて見る天稟は、諸現象に神を見る才能である。そうした洗礼を受けない学問は、働きバチのように生殖することなく冬に際して流れ去ってゆくものである。

 すべての知識は神とともに生きようとする努力であり、その過程が現象化して目に見える歴史となる。全ての知識を吸引するは「一」なる神であるから、すべての学問は根本知にかえってゆかなくてはならない。

 その根源の絶対者に直接由来するものは、それ自身絶対でありそれ以外に目的はない。知識は全体を概観すれば、一つの絶対的観念宇宙全体そのものである。霊的大宇宙すなわち最大の知である。可視的自然は、その現象された一部である。自然は有限であり、観念は無限である。自然は必然のルールが治め、観念界は自由である(現象した自然しか見なければ、何かを奪えば誰かが何かを失うことが必然の世界であるが、それでも誰か他の人のために持っているものを与えることも自由である世界である)。

 人間はこうしたことができる存在である。貧しい持ち物のなかのなけなしのともしびを、誰かのために捧げることのできる崇高な自由を持っている。

  物質に満ちた夢なき世界に、夢を与える存在である。すべてが流れ去る世界において、永遠のものを知り、伝える自由がある。

 種族の保存欲をコントロールして、調和に満ちた世界を創る自由がある。

 生存競争により個体同士が争っているかに見える自然に、美と愛他の精神を創造し与えてゆくことが許されている存在でもある。

 そうした自由が神から与えられ、この自然世界を天使の心をもち神の手足として素晴らしいものにしてゆく義務がある。

 知識は絶対者の一部であり、知識はすべて神へとつながる目的がある。
 
 観念論はまやかしだ、実証されたものしか学問ではない、実験データのみが真理だという声はいまだに多い。こうした実験によって確認されるものしか目的としない学問も存在が認められている。

 しかし絶対者は観念的なものであってまた現象世界をも統治するものである。絶対者はそのように観念世界と物質界のように分離相対化されるものでなく文字どおり絶対なのである。観念知も現象知も、本来一なるものである。観念が現象化して物体となってもまた光によって、あるいは人間理性によって観念世界へと循環してゆくものである。知識は観念を現象化し、実験行為は現象を理念化するため、学問には両者が必要である。ただし実験が必要であるのは、我々有限者においてである。本当に悟り、無我となればこの両者はまた「知即行為」「知行合一」であり対立するものではない。

 知識を手段とするプラグマティズムの考えでは、学問はこの世的発展につながるものしか価値がないことになる。そして観念論は主観のローカルなものとしか映らないのである。

 本当の観念論は、この現象世界をも変えてゆく力を持っている。理論だけで知識だけで妄想となっている言葉が多すぎる。現実と何の関連もない考えはまた、自由に見えて本当の自由ではない。本当に真実の思想を確信し、真実が埋もれている現状を見たら、かならず世の中を変えなくてはならない。それが本当の自由である。これは人生の途上において、だからこそわが生命あり!という生命の燃える瞬間であり、これを学問の世界でつかみ取る努力が望まれる。真実の世界のルールは、この世界においても真実でなくてはならない。これが「知行合一」の境地で誓うべきことである。

 これは哲学と科学の統合の話でもあり、役割分担をしながらそれぞれの学問を究めつつ「ほんとうに正しいこと」をもとめ宗教への高まりをみせるものなのです。

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