シェリングの「学問論:岩波文庫」(現在再版されてません)の「自然学一般について」という章を、自分なりに読みほぐしてみました。続きで「物理学と化学の研究について」もはじめました。

自然学一般について

 自然を科学するには無為自然となり、そののち分別をはたらかせると、自然には、理念が物質界にできつつある面と、観念としてできつつある面の二つがあることを知る。いずれも同じ法則にしたがう、全宇宙の一なるものである。

 自然を理念の生み出すものとして探究するには、かぎりなく絶対者への念いを持ち続け、自我を解放してゆかなくてはならない。
 絶対者もまた、今もそして永遠に、自己を客観化しているのであり、その活動によって有限で完結している小宇宙を生み出している。それと一体になることだ。

 理念が、創られたものと神とを結ぶものであり、その平等性によって、個人に自我が与えられている。神の内の理念は、観念的な生命を持ち、神が直感によって対象化した最初の産物であり、神に最も似ていながら私たちとを媒介し、他者と比較する必要のない絶対の愛でもある。

 こうして、神より出た無限の理念は、有限な私たちにとっては神と等しく力を持ち、理念自身は時間を超越したものでありながら、私たちには経験を通してその姿を現す。「理念は物の心であり、物は理念の身体である。」私たちが理念に達するのは、身体的な行ではなく、深く心の内に穿ち入り、心の力によって自身の理念、使命を悟るのみである。私たちの存在を、物質的な身体と客観的に見るなら、理念は心の内に現れることはなく、運命に操られる不自由な存在となる。しかし、私たちが有限であることを自覚し、なおかつ神に愛されていることを受け入れ、神の手足として働くならば、理念と一体となる幸福感に包まれる。これが理性を持つ人間であり、世界精神が歴史を展開する支点となる。

 神が理念を創造し続けるように、神に似た理念も、自然を創造し続ける。自然はその創造を、原子核と電子の作用によって原子ができつつあるように、動物の親が子を生むように、理念を宿した自然は、創られたものが創るものを時間のうちに創るのである。
 
 自然は、理念によって創られたものとして理念との絶対的関係において哲学的に、あるいは創られたもの同士の相対的なものとして経験的に考察される。後者は、自然科学のうち帰納的に探究された応用科学である。
 帰納的な方法による一般にいわれる「科学」は、物体や人間の経験を離れることを任務とせず、物体が「在る」という前提に立つ。しかし、前者の自然哲学では、物体を理念の転化した観念的なもの(エネルギー)として扱う。

 芸術家は、理念を己一人のものとして観念的に捉えるが、それを多くの人へ示そうと芸術作品としてしまうが最後、理念は消え、しかしそれと似たものの客観性(多くの人が喜び共有できる)を手に入れる。理念の転化とはそうしたものであり、眼に見える全てのものはそうした理念の「遅い」過去である。この物体を存在とみて精神を駆逐した経験論では、真実を知ることはない。
 (必ずしも、デカルトが望んだことではないが)こうした精神と物質の二元論は、科学を閉ざされた世界のものとし、物質の前提であった神を考えることもなく、物質界を細かく分割し、つなぎ合わせては、機械的に運動させ理解としたが、この方法では本当の自然学に達することはない。
 経験論や唯物論が前提とする物質は、原因ではなく結果であり、本当の原因を尋ねる可能性に盲目となっている。
 一切の原因は、経験される実在と、観念の統一である。自然の活動の根源には、一なる無限なる神があり、一なるものから生まれているがために、また内的自然と外的自然も統一されるのである。
 ライプニッツによる予定調和という神の作用も、機械的な遠隔作用という無味乾燥的な解釈に変わってしまっている。

 物質は死せるものであり、精神的なもの一切を排除しようとしたため、物理的な運動法則によって説明されるものとなった(以下・・重力・・不明)
 しかし機械論は、ホメーロスなどの芸術作品を理解するのに、印刷文字からインクの成分、紙の材質など分析にとりかかるようなものだ。全体を理解するのは全体であって、その一部ではかれるものではない。 (たとえば、母親は子供にまずひらがなから教える。子供は母親の書いた漢字混じりの文章を見ても、「ひらがなしか読めない」のは現段階では仕方がないが、子供が「母親はひらがなしか書けない」というのは間違っている)

  理論と実験という分け方は、正しくない。理論は、すでに目の前にあるものに対する経験を含んでおり、それらをより普遍的に抽象化したものであって、その理論から実験を導くということは、同義反復をまぬかれない。有限で個別的なものから法則を捏造しても、適応範囲は自ずから決まっており、そうした法則は相対的な価値しかない。見ようとするものしか見えないし、パラダイム内のものしか見ようとしない。実験は、すでに理論に拘束されており、本当に白紙の上から実験によって帰納的に積み上げて中心概念へたどりつける科学というのはあり得ない。

 学問として、自然学も客観的でなくてはならず、そのためには、帰納的な実験を通した客観化は不可欠ではあるが、しかしそれは学問の本質ではない。時間に拘束されず普遍の理念が、時間的に、他の存在と相対的に繰り広げられる領域が、学問の客観的な部分であり、これを本当の意味で科学するには、経験された内容を理念にまで高めなければ、物質と精神は一体となることはない。しかし先入観にまどろんだ状態で、経験以上のもの(理念)を否定しようとしても、真理の大河にのみこまれて消えてしまうであろう。

 それゆえに理念に基づく絶対的自然学は根本的なものであって、盲目的な枚挙に終わりがちな経験的自然論へ方向を与える。

 自然学は、個々の現象や、データ収集を超えて、それらを一なる原因より偶然の全く入らないかたちで、生じたものであることを示すものである。個別的なるものも、自然全体の理念のかけらをもち、一即多、多即一の関係をもっている。それ故、一なる神を知らずして、個別的な現象は知ることができず、それを認識するためにこそ哲学がある。
 神が全てであり、神より全てが生じたことを理解するのは、哲学の使命であり、自然が、生成・消滅を繰り返す永遠の運動の経験可能な領域、すなわち神のうちなる自然であるために、自然哲学は神の必然的世界を哲学する。
 哲学の原理は、絶対的観念性であるが、無限的な観念であるならば夢と変わらず、絶対的観念を、観念として認識する客観化が行われなければ、学問もまたあり得ない。永遠の主観が、客観に転じた有限者こそ、自然である。

 
 主観を客観視し、その客観している主観をまた客観するといった運動は神に由来するものであり、哲学は観念論でなくてはならない。自然哲学は観念論であるが、すべてを主観としか見ない(フィヒテの)観念論とは対立する。(なぜなら以下・・表現できず) 理念の移し身(影)である経験的な個々のものは、(人間の)観念と自然(の観念)は統一されたものとしてはあらわれず、観念にとって向かい合う自然は消極的なものとして現象し、フィヒテのいう観念は積極的なものとして現象する。ところが両者は、それぞれ相対的なものであり、神のうちでは一つのものである。

 自然は、神からみれば人間精神とも絶対的差異はなく一であり、人間精神からながめても自然は自然として一であり、その中に絶対的な差別はなく唯一の生命があり、同じ力によって遍在している。
 自然のうちには、肉体や物質そのものというのはなく、常にあまねく心霊が肉体に象徴的に転化し、ただし科学の枠をはめれば肉体性が優勢に認められるということである。自然学も唯一であり、悟性によって自然哲学や相対的観念論などに区別されている。

 構成とは自然哲学の対象物を、観念へと高める直観である。経験世界の一切の個物は、個物としてまた理念でもある。物体はそのまま霊である。物体即霊、しかし、その源泉は物体ではなく、永遠の仏神である。主観・客観化の運動は全てに働き、分化してゆく。万物の霊は、一なる理念の種々の現象であるから、経験世界に到るまでは無制約的なものである。

 さらに一切の物を規定しているモデル(様々な生物の種など)はその由来を共通にするために、「一」であるし、この一なるモデル(生物でいえば全体生命、地球系のガイアのようなもの)は必然性をもって理解されるから、この必然性はこのモデルを直覚する構成のうちにも存在する。この構成は、経験的な実証を必要とせず、悟得するものである。この理解は経験を超えている。

 行為に対してのみ運命があるわけではない。知識にも、神の影である宇宙や自然が必然的に関与している。運命に立ち向かう勇者は神も照覧するが、精神が、自然の精神の内奥と現象化した大宇宙との融合を目指し探究する姿はまた、崇高な光景である。

 悲劇において闘争は、環境を打ちたおすのでもなく、運命によって打ちまかされるのでもなく、両者の同一によって昇華される?また精神も、自然が己を浄化して精神との完全な無差別となり、観念的なものとなることによってのみ、自然との戦いから和解してぬけでることができる。

 事物の認識に対する充たされぬ渇望から生まれるこの矛盾に、ゲーテはドイツ人のためにその詩をもちきたらし、永遠に新鮮な霊感の泉を開いてくれた。この泉によって、学問を若返らせてくれた。
 自然の聖殿の奥深く参じようとするものは、固定観念を解き放ち霊性に目覚め、世界を動かす力を洞見するがよいのである。

 

戻る  次へ