物理学と化学の研究について

 経験によって認識された個人的現象や「机」とか「鳥」のように捉えられるもの以前に,これらより普遍な実体がある.質(料)である。経験は、この質料を五官をとおして物質として認識するのみである.この物質、物体をつきつめても無数の原子としか考えられない.経験による認識では、これが限界である.(ここで差し挟めば、質として考えられているものは、現在の量子などを考えるといいと思う。分子から原子は経験世界の分割物であるが、クォークは違う。理論物理学は自然哲学の正統を引いている分野といっていい)

 物質をつきつめるためには無機物とか生物とか考慮する必要はない。物質そのものは共通の原子からなりたっている.神が宇宙のうちにその姿をあらわすとき,宇宙をかたどる物質は、神が自己を客観化させた姿の一部である。物質の奥に、こうした神の粒子を見ることも、そこから全ての景観が現象化する様子を示すのも、自然哲学の仕事である.

 質が神の自己顕現であることは、「自然学一般について」でのべたから,ここでは質より様々な現象が生じることを述べよう.万物様々の究極の理念は、一なるものである。様々な形の三角形も、ひとつの理念より生成する.理念の無限性は、なにも拘束するものがない。分割、分別されるものは相対的なものであり、「絶対」の第一法則は、分割されることがないということである。三角形や四角形などの理念は,互いに他の(図形の)理念を否定するものではなく、分割されることのない上位理念が三角形なら三角形の理念に応じて分有されるということである。こうした理念界の秩序が,経験世界を理解するパラダイムとなる.
 
 経験世界においても、「机」「ウサギ」などの分類は、世界様々な「つくえ」「うさぎ」の統一であり,自己を除く他の理念を特殊として,自己と他との関係によって成立している。こうした種は、それ自身で完結した小宇宙としてある.

 それらへの広がりへ移行し、空間を満たす方法は,一が多のうちに造り入れられる神の自己直観である。多は、理念界においてはもと一なるものであるが、経験される段階においては他と対立している。
 

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