3.絶対者からの創造

 それは無限なる主観であり根本神です。シェリングによると、この根源の神は、有限者である人間には、とうてい客観的に把握できないものです。しかしそれでも「ある」のです。「ある」のですが、有限者にとっては認識不可能なために「無」なのです。
 シェリング哲学は、自己組織化する自然の先駆的モデルとしてとりあげられております。このモデルとしてのシェリング論は、自律的とはいえ何らかの目的へ向かって蠢く有機体として扱われております。しかし本来のシェリングの精神に基づけば、この根本の神なくして、すべてはなく、自然も運動を始めることは決してありません。すべての生命の源であり、最終目的でもあります。

 運動する自然とはどのようなものであるのか、図を用いて示してゆきたいと思います。 神は光ですが、ここではシェリングに従い、把握できないことを暗闇で表現します。


 0. それは絶対的主観であり、絶対に一つであり、絶対に自己同一であり、最高法則であり、すべてのすべてであり、唯一の存在でもあり、本源であり、底のない底とも表現されます。そして、無限であり、永遠であるこの根本神は、すべての時機の根底にあります。すべての時機に、永遠不変のものとして存在しています(ヘーゲルにおいて絶対者は「発展」でもあります)。すべての先にあり、すべての後にある、決して客観化されない永遠の主観です。
 絶対者が絶対であることにより時間を超えた存在であることが、自然の運動因なのです。それでは、絶対者から世界はどのように生まれたのでしょうか。

◆世界霊

 絶対者が、われわれ有限者に決して全体把握できないという原理上、一番はじまりの絶対者の心を論証することは不可能です。 客観的になり得ないこの主観は、対象となることはないので「無」でもあるのですが、やはり「ある」ものです。ちょうど何もない宇宙空間に向けて光を発しても、その光は見えないように、無限者は無限者である限り、対象をもたないため、「無」なのです。 自然は、この絶対の主観が、自己をなにかにすること、によって始まります。


 
0.1 その地点は、思考の限界地点であり、そのため、神が自己を知るために自己を表現した憧れであるとも、神の根源的な意志とも、断絶とも飛躍とも、不調和から生まれたとも、偶然として始まるとも、いろいろな表現で語られます。現代物理学のいうように無からゆらぎとして生まれたとも考えられますが、知の限界を超えているものは信仰以外にありません。宇宙が神からの堕落ではなく、「すべての者よ、無限の向上を目指せ。」という念いより生まれたことを私は信じています。
 そして根本の神より生まれた存在は、最初の客観となります。最初の客観は、絶対者から生まれ絶対者と同じものでありながら、絶対者より見つめられているという制限を受ける者であって、有限の精神です。自然の精神、自然霊、これが物質の始端です。
 客観となった精神と、それを眺める絶対者。この平和な構図は、客観が生まれると同時に、壊れてゆきます。なぜなら対象者をもつ絶対者は、すでに絶対者ではありえず、相対的な精神になっているからです。この状態では、なんらの生命も運動もありません。
ではどのように自然は運動し、進歩し、自我へと到るのでしょうか。

                           

◆自然の弁証法

 「無」として「有る」根本神が運動の原因です。くりかえせば、それは唯一のものであり、無限なるものであり、主観であることをやめない主観です。
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」と『老子』にもありますが、世界の始まりはこのとおりです。

 0.5
 絶対的な主観は、先ほどまで無限の絶対者であったにもかかわらず、眺める客観をもつことによって、「無」としての存在から有限者をはらむあるものへと変化していることになります。最初の客観を生むことにより、自身も「唯一もの」からはなれて、原始の客観を眺める相対的な主観となります。
 しかしながら、この状態は、「絶対者は無としてありいかなる属性をもたない」ということと矛盾しています。そこで、主観は自分自身である客観を引き取り、絶対者へと立ち戻ろうとします。
                                  


 
1. しかし今度は、この引き取ることによって、すべての時機にある始源の絶対者とは、また別のものとなります。今度は、自己が[主観-客観] という客観であることを知り、また絶対者0 を求めて、この状態から解き放たれようと運動を続けます。
 この絶対者への愛が、自然、世界の運動法則の本源の力なのです。つまり進化の根本原理といってもいいでしょう。一度運動を開始した[精神-自然]は、自己を知る精神に至るまで、振動を繰り返すことになります。自然の目的は、自己を知る精神になることであり、ここに進化の目的論が擁護されるのです。進化は、決して偶然ではありません。素直に眺めれば、自然は「より進歩的で、より合目的的な姿に変わって」きているのです。この図の右側の物質の質料へは、この後次々と精神の光がさしきたり、光の刻印をうけて精神性を帯びてくるのです。
「この生み出さされた客観的なものから主観的なものへの発展こそまさに本質的なものだったのである。」シェリング『哲学的経験論の叙述』


                         


 運動因としての、創造の力と、絶対者へとたちもどる力が、導き出されました。これは同じ力です。この二つの対立する方向性を持つ力が、どのようにして世界を進化させていくのでしょうか。


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