5. 先験哲学への道

◆シェリングが『近世哲学史講義』において、自然哲学に先行すると認めるフィヒテの哲学は、人を天使へと導く哲学であったと思います。シェリングの「自然哲学」に続く「先験哲学」は、そのフィヒテの哲学を踏襲しています。「先験哲学」は「自然哲学」の最終章ではなく、入り口でもあるべき内容を持ちます。両者を並列におこうとするシェリングに対して、発展する絶対者を考えるヘーゲルは、「論理学」-「自然哲学」-「精神哲学」と、並べ、純粋論理を自然に先行させ、精神を目的とした一貫した弁証法で世界を描きます。体系を求める哲学としては、こうであって欲しい。

 フィヒテの哲学は、ニセモノの自分を捨て去り、本来の自分に目覚めさせる力を持っています。相対的な自己、感覚によってあると感じられるものをそのままあると思っている自己、判断以前に押しつけられた考え方、自他を不幸にする思い、さまざまなとらわれを捨て去り、徐々に精神が解き放たれ、大いなるものと一体になる感覚に至ることを情熱をもって描きます。絶対者が無我であり続けるように、自らもはからいを捨て、こだわりを捨て、しがらみを解き放ち、真実の自己の姿を知るとき、私たちは、「私=私」としかいえない神秘的な境地に至ります。これを客視すれば「精神=自然」となります。しかし、私が全宇宙であるといっても、もちろん、日常意識の私が、遠い惑星の運行を司っているわけではありませんし、自分の心臓すら私が意志で動かしているわけでもありません。精神と自然が、同一であることを感じたということは、自然もまた精神である部分を持ち、この自然の精神(能産的自然)も目に見える自然現象を産み出し消滅させているのではないか。こうして、自然へ精神を、精神の法則(弁証法)によって考える(創りだす)ことが、自然哲学の動機であったと思います。

 自然とは何かを、メスか分析機器でとりわけているときは、自然は役に立つものとして素材を提供しますが、その真実の姿を見せてはくれません。しかし、外なる探究を措き、自己の生命とは何か、自分の使命とは何か、深くふかく心の中を掘り下げていくときに真実の自己の姿と、同時に、その熱い念いに満ちた自分をずっとずっと支えていた自然の愛を、一手に感じることができるものと思います。そのとき、自然が、単なる物質ではなく、私たちと無関係なものでもなく、同じ目的のため同じ宇宙をかたちづくっている、本来同一のものの我と彼なのだなと感じることができます。

 松尾芭蕉は
「草いろいろ おのおの花の 手柄かな」という句を読みましたが、本当に、花々が誇っている感情、その姿を私たちに悦んで投げ出しているけなげさを、感じとっていたに違いありません。こうした世界観は大学でも教えてもらいませんし、こうした心境に到る方法も普通に生きていて知ることはないと思います。

 自然の優しさを知りたいのであれば、優しい人になることです。優しい想いで胸を一杯にすることです。あるいは、素直に、ゆるされる状況であれば子供のような心で生きることです。大人になるまでに付けてきた心の塵を落としてゆくことです。子供の頃についたウソや、本当は謝りたかった思いに蓋をして生きてきたことを思い出し、涙がこみ上げてくる。こうした素直な反省を繰り返している内に、優しい心というものは取り戻せるのではないかと思います。

 生死一如(しょうじいちにょ)の丘にたてば、見渡すかぎりの大自然が、一つの生命を協力して運んでいることがわかります。もし、人間や動植物が身体のみの存在であり、この世界が死んだら何もなくなる世界であれば、ダーウィニズム的な世界観が生まれてもしかたないかもしれません。しかしダーウィニズムは、唯物論と19世紀以降の個体(個人)主義を、生き物の世界に、勝手に押しつけて解釈しているだけであり、死にたくない人間精神が独断で支えている仮説に過ぎません。私たちの多くが、先験哲学の階段を登り始めたときに、それに対応する自然の姿が見えてきます。
 もちろん動植物にも資源をめぐる個体同士(あるいは種族同士の)競争は存在しますが、それは多くの人間精神がまだ、競争原理を至上のものと捉われている段階にいるから、そう見えているに過ぎません。

 また、進化論が「偶然」という無知を最大防衛としており、人類の叡智に貢献していない一面もあります。この「偶然論」はダーウィン以来現代のドーキンスなどに到るまで一貫として捨て去ろうとしない毒麦です。不思議なくらい盲信されています。進化論に忠誠を尽くすことは、いまでは全く楽なことであり、生活や名誉を保証するものですから、しかたない面もありますが、このサイトにこられた方は、自然哲学によって開かれる、生き物の精神や心を気にかけてあげてくださることを心より祈ります。


 物質、光の法則、生命。この果てしない大河は、唯物論でも、現代進化論でもわかりません。本当に自然を哲学する眼は、自と他の壁を取り払い、自己が神へと近づこうとする努力の中に開けてくるでしょう。そして、神の栄光をこの地にひろめんと志したとき、全ての生き物も、またその努力の中にある同朋として見ることができます。花の中に、森の香りに、あるいは名前も知らない小さな虫の翅脈にも、天上の星のまたたきにも、大いなる精神が常に働いていたことを知るでしょう。そして滔々と流れ込む生命の奔流が愛であり、そのかけのぼるような喜びの泉にひたった経験は、いつでも思い出せる感謝と優しさです。この優しい詩を、人類がまた再び聴いてとれる豊かな時代を、自然は待っていると思います。その思いに触れて、私はこれを書いています。
 きっとこの素晴らしいエネルギーを経験したことは、自然哲学のほんの入り口なのだと思います。これから個別で具体的な探究が始められるものと思います。従ってこの「自然哲学の庵」で紹介したことも、やはりほんの入り口です。しかし、本当に自然とは何かを探究するための、土台は見えてきたように思えます。

 私たちが探究しようとしているものが、仏神の慈悲のあらわれであり、そのことを体験するためには、それを妨げる思想から自由にものごとを考えられる努力が必要だということです。


 

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