6. 同一哲学
 

◆哲学的視点

 自然を精神的に見るためには、自我を去らなくてはなりません。フィヒテの「浄福なる生への導き」(平凡社刊)にあるように、仮に生きているこの世の価値観、とらわれを捨て去り、思考即我を体験しなくてはなりません。知識的に、論理的に「我思うゆえに我あり」を考えているだけでは開かれない道です。そうした人には形而上学が、脳の産物ではないかという誘惑に常にさらされるでしょう。「浄福なる生への導き」は、読み物ではなく、哲学的「行」、修行課題として取り組まなくてはなりません。常に、むさぼり、怒り、常識というとらわれ、猜疑、恐怖、名声、排他の思いなどで心が乱れていながら、知識的に学問を積み重ねるだけではわからないものがあるのです。自然哲学の前提に、まず、全てが一つとして、「知」として認識できる、宗教的な愛に包まれた幸福な状態を目指す必要があると思います。そうでないと自然哲学は、シェリング以降虚構と欺瞞があふれたようにまた退廃してゆくでしょう。

◆自然哲学

 フィヒテはその幸福な体験を、唯心論的に表現しました。同じその体験を、シェリングは「全てを個人的心の産物には出来ない」と考えます。そして客観的な自然を、絶対者と「絶対者の内の自然」から弁証法によって創出されたものとし、その全人類にとって普遍的な精神運動が、個人的自己に「知」として到ることによって、「自然即知、知即我」の境地へ到ると考えたのでした。私たちが知る自然は、西暦2000年とよばれる時点での自然なのです。

 こうして、私たちが普通に呼びさす自然の対象物は、「自然にとっての精神」(能産的自然)が生み出した産物として扱われるようになります。能産的自然は、自然産物のイデアであり、個体における種でもあります。イデアとは古来不変の実体と考えられましたが、ここでイデアも弁証法という運動法則によって変遷するものとして扱われるようになります。ここに実在界の種も変化するという霊的な進化論が導かれる哲学的立場が与えられました。

◆先験哲学


 知として経験された自然は、それまで導いてきた精神的活動を終え、人間精神に対する客観へと姿を変えます。先験哲学です。ここで人間による自然理解とは、全く観念的なものになります(フィヒテの立場)。シェリング哲学における自然とは、人間が心で生み出した産物にしか過ぎないという極端な見解を廃しつつ、しかし、人間なくては意味も目的もなく、認識もされないものとして、適度なバランスの上に成り立っています。「人間が自然を征服することが許されている」といった環境破壊を容認する思想ではないことはもちろん、ディープエコロジーや人間と自然環境を無差別化するような非人間的な観点にも距離を置いています。
 「自然即知、知即我」とは、人間が神へと向かう使命に気づくと同時に、それをけなげに一言も発せず支えてきた全生命に愛の想いが沸き上がることであり、その深い感謝によって自然が人間に従属するものとなるのだと思います。自然が人間に従属するとは、それこそ環境破壊の思想ではないか、人間のエゴではないかと思われるでしょう。しかし、自己のエゴから解き放たれた人間であるからこそ、ヒトは人となり、神へと向かう人間は、人類同朋にそして自然へもより深い愛を流してゆく存在でもあります。こうして目覚める人が増えることを、動植物の魂も共に喜んでいることがわかります(奉じる思想は唯物論でありながら、資本家憎しという反動で環境保護を訴える活動家には、自然も迷惑顔です。また人間関係が苦手な反動で、ペットや自然を愛する傾向がある人も、自然霊のなかでも人間に恨みをもったり「罰」によって反省を求めようとする意識と同通している人が多いようです)。様々な動植物によって生かされていることを知って、人は自然に対して優しくなれるのです。地上にて、このエネルギーの循環を司っているのは人間であり、人間は他者へと愛を与えてゆくことで、また霊長でいられるのです。

I. 理論哲学 …自然科学の必然の法則がおさめる世界観、単純に自然はありのままに存在すると考える、覚める以前の無意識。
 1 感覚 2 反省 3 意志
II. 実践哲学 …意識を持って世界、自然、未来を変えて尚且つ他と調和する自由な自己。精神は自然を創造することができる。
 1 自己衝動 2 衝動と道徳律との対立 3 歴史哲学(先の対立が調和してゆく自由過程)
III. 芸術哲学 …必然と自由、無意識と意識、客観と主観、自然と精神の統一、同一が図られる

 さて、客観化された自然知は有限なもの、必然的なものとして、さらに高次の精神と対立します。そしてより自由な主観が、より道徳的自由をもとめる実践哲学の領域が開かれるのです。この対立を統一する過程が歴史としてあらわれてきますが、無限時間をまたず、シェリングは「永遠の今」を芸術として観る視点を同一哲学のなかに見出します。「現象界即霊界、霊界即現象界」とも言えるでしょう。自然哲学が、これからの科学によって探究される領域とすれば、先験哲学は、そこで得られた知見を、どのように人類に貢献させてゆくかという倫理を探究する領域にあたるでしょう。

◆同一哲学

 
 

 シェリングは哲学的には神は認識されない、認識された神はすで客観となった神の似姿であるといった立場を生涯とっていますが(そのためここでも本来光である絶対者を暗く表現しています)、世界と精神の根底に神が存在することを疑いませんでした。絶対の神への信仰のもと、自然界(現象界)と精神界の両者を眺めながら、融合しながら、また人類は素晴らしい科学を探究することが可能となります。そして、一人一人が切り開いた、素晴らしい努力、素晴らしい発想が、また普遍の客観となって、人類史に貢献してゆくことが出来るのです。

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