0. はじめに

 
私たちの物質的な身体器官によって、知ることのできる世界は、やはり物質的な世界だけです。

 あなたが、人間とは肉体のみであり、物質的なものと思っているなら、あなたの知っている世界も物質世界だけでしょう。それは現代日本の義務教育のみを信じて学んできた人にとっては、仕方のないことかもしれません。唯物論的な世界観によって、ほとんどの日本人はこういった世界のがすべてと教え込まれ、この世界の中に生き、死んでゆきます。その世界には、社会も、国家も、地球も、月も、星雲も含まれた、広大な世界であって、その中で有用な人材となる教育を受けさせてもらったかもしれません。しかし、最も大切で、最も身近な、最も知りたいことには、なにも答えられないのです。

 私たちの世界は、ほんとうはもっともっと広大な世界であり、もっと素晴らしい世界が開けています

 そうした世界のほんの入り口に、小さなこの庵をたてました。私たちが、これから探究してゆく自然は、今は目に見える世界ではありませんが、あることは確実であり、これから哲学され、科学されてゆく、無限の宝庫です。真なる教養です。その物質中心の機械論的世界観は、努力を放棄した幼稚なおまじないや、魔女狩りなどがまだ支配的であった時代に、「科学」を解き放つために、与えられた世界の見方の一つにすぎません。科学もまた、人類の幸福を願って与えられた相対的真理の一つです。その真理の流布のため、まだ混沌とした空間に、縦・横・高さというマス目を入れ、24時間の相対的な時間が均一に流れる世界観が、必要だったのです。こうした世界観が壊されることが中世への逆戻りと感じて、無意識に抵抗する人には、大丈夫ですよ、といって慰めたいのです。 科学の探究範囲が物質世界から精神世界へと発展していくための、過渡期という時代が来るでしょう。物質世界の探求は、精神世界の進展と共に、並行してまだまだ発展してゆきますが、その両世界の探求が必要になっています。

 唯物論(信仰)者は宗教や神秘思想を嫌い恐れますが、ほんとうに恐るべきは唯物論思想と思います。唯物論国家によって、戦後何千万人もの人間が粛正されています。かるく二度の世界大戦の戦死者の数を上回っています。人類史上これだけのジェノサイドが行なわれた例をみるのは、唯物論国家のみでしょう。もしあなたが漠然と唯物論を信じているのならば、最も恐ろしい思想と隣り合わせにいることを知ってください。もっと生命あるものへの優しい見方が、今は必要なのです。もっと、もっと・・・。

 今西錦司氏は、もと一つからなる地球の発展から、生物の進化をときました。私たちの身体も、もと一つの細胞が、皮膚、神経、内蔵器官、心臓と分化しながらも、一つの個体のために調和して成長してできています。これを比喩として、今ある多様化した生物達も、闘争だけではなく調和によっても、元一つの生命から形作られているという自然観を持ちました。その自然観のなかで、進展してゆく力を、主にドイツ観念論に負いながら、このサイトを造っています。
 目に見えない自然への本格的探究の前には、目に見えないほんとうの自分の心を知る必要があります。 自然を哲学する前に、自らとは、自らの心とは何かを考えなくてはいけないのです。しかし、そうした世界があるんだろうなぁという、いざないとしてこのサイトを公開します。その奥には、ほんとうに無限の世界と、今この時代に生きている意味を知る、素敵な出会いが必ず待っています。唯物論、そしてその世界観でしか有効でないダーウィニズムを捨て去り、光満つる実在世界へと魂を遊ばせてください。その途中に、きっと、美しい自然や、かぐわしい草花、かわいい動物たちの精神が、待っていることでしょう。生き物たちにも、それぞれの情緒があります。いずれその精神も情緒あふれる数学で表す時代が来るのかもしれませんが、今は詩とか直観で感じ取るものであるものと思います。それがまた普遍的な学問でありますように。

 そしてドイツ観念論哲学とは何であったのでしょうか。
 カント-フィヒテ-シェリング-ヘーゲルはそれぞれ、
「自分を知るということは、世界を知るということです。 自分を知るということは神を知るということです。 神を知るということは、神の創られた世界を知るということです。 そして、すべてが明らかとなってくるのです。」『悟りの極致とは何か』参考書籍より
ということを言いたかったのではないかと思います。

 日本の教育においても、「ものしかない」唯物論、脳が精神を生み出すような思想から、はやく抜けだし、せめて観念論哲学で探究する世界観を背骨にした教育から生き方、考え方を、知識的にでも伝えることが、世界に流れる潮流からはずれない指針と思います。平面的な唯物論では、たとえば現代物理学で発見されていることも、立体的に知的把握できる人材を育てることはできず、新規な実験も組み立てることができないでしょう。

 私は哲学を正式に勉強したことはないので、哲学の専門家にとっては、至らない点がたくさん見あたることでしょう。私が伝えたいことは以下の言葉であって、表記、用語のことで不快な想いをさせてしまうことに関しては、深くお詫びと理解をお願いしたいと思います。また、観念論哲学のことに関しては私自身も学びつつ、理解を深めてゆきたいと思っております。
「自然界の法則の奥にあるものも、人間界の法則の奥にあるものも 実は仏の心であり、神の心であるのです」『奇跡の法』同



 

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