3. 環境について

 生物はたえずみずからをつくっています。一体物質とはどこが異なっているのでしょうか。生物もまた物質の世界のものと見ることもできます。しかしこの物質的なものを、何が全体に統合しているのかを考えると、生物の方針ということに思いがめぐります。この全体を還元論的に、細胞や分子に分析することは可能ですが、細胞や分子の世界から、生物の世界を把握することは不可能です。現状維持的な空間と、万物が流転する時間というこの世界の根本法則の中にあって、積極的にみずからをつくってゆく、「作られたものがまた作るものとなっていくということを生きることというならば、」この生きるということが生物の方針と考えられます。

 「生物においては生きることそれ自体が目的となっていなければならぬ。」生命とはまた、目的でもあります。生きるという方針をもった物が生物なのです。構造即機能的なかたちを持つことに、その統合性が見えるのです。
 

 生物という統合体には、環境が対比されます。が、生物は環境を離れては存在し得ません。環境を離れたところに生物は考えることはできないのです。生物は環境から、無機的、あるいはえさとして有機的養分を取り込まなくては自身を維持できません。やはり生物と環境とはともに一つのものから生成発展した世界のものであり、その意味において生物と環境とはもともと同質のものでもあるのです。この環境から標本のように取り出した生物は、具体的な生物の姿ではないのです。 全ての生物が環境という世界を持っています。

 アリにはアリの認識可能世界があります。アリの環世界(ユクスキュルの造語)、アリの世界です。ミツバチにはミツバチの認識世界があります。ネコにはネコのすむ世界があり、ムギにはムギの世界あり、それは、全て、ヒトの環世界に住んでいるように見えながら、各々は各々の世界の住人であり、その世界を治めているのです。私たちは、それぞれの種の世界を五官によって知ることは不可能であり、われわれはわれわれの世界のことを探究し、その知見でもって生物の世界を類推し、働きかけ、反応を観察することによってその世界を客観化する以外に科学的方法はないのです。

人間の世界における風景

 アゲハにとっての環世界、アゲハの見える(視覚のみではない)世界(想像:食草と同種がはっきり認識されている)

 「われわれの認識しうる世界がわれわれの環境であり、この世界に他ならない。」イモムシがアシナガバチに肉団子にされるのを見て、アシナガバチは顎も強く、攻撃的でイモムシより生存するのに適応しているなどという見方はまったく人為的なのです。イモムシもそのチョウ(ガ)の世界では、最適者なのです。その生物が生活し、生物によって認識され同化された範囲内が、その生物の世界なのであり、環境なのです。オートポイエーシス論は、システムが環世界との関係を自らどのようにつくりだすかを考察します。「システムの考察を観察者の立場から行うのでなく、システムそのものから行うという全面的な変更がなされています(引用こちら)」ということであり、今西さんが種の社会の内部を、種の視点を類推して考察する立場は、現代になってようやく理解されてきたといえるでしょうか。

 

 そして、「生物とその生活の場としての環境とを一つにしたようなものが、それが本当の具体的な生物でなのであり、またそれが生物というものの成立している体系なのである。」

 地球環境問題は、経済的利害などを優先し、ヒトの環世界つまりは私たちの世界および自分自身に向けて、有毒物質を投与していたことを浮き彫りにしました。当時、環境とは、身体を離れたものではないことがわからなかったのです。

 この生物の世界は、仏教の三千世界に似ており、一つの(にんげんの)世界に見えながら、それぞれの種の認識可能世界にそれぞれが棲み、それぞれ違った世界の中に生活しているようなのです。生命というはたらきは、身体的な中にあるのではなく、この環境を含めた世界に広がっているものと見るのです。


 そして、進化論的な見方に立つと、生物は全体としてこの「環境を拡大するような方向に進んだ、あるいはみずからの働きかけみずからの生活する世界を広げるように進んだ、ともいえるのであろう。環境の拡大とは要するに認識する世界の拡大であり、認識の拡大とは生物における統合性の強化とか集中化とかを意味する。」とあります。認識の本質とは類縁を知ること、第一章で述べました。生物全体は、大生命として、この環境世界をよりよく、深く、広く知る方向に進化してきたと考えることはできないでしょうか。人間原理などの宇宙論ににているかもしれませんが、宇宙は自分の姿を見るために人間、人智というものを生み出すよう進化したというわけです。生物全体は時間と共に確かにその棲息空間と、認識空間を広げてきたことには間違いがないのではないでしょうか。

 

 そしてこの章の最後に、生物自身やこの環境を認識し、統制し支配するものに、生物の主体性、環境に対する主体性というものを認めています。「このような認めることがすなわちはたらくことであり、はたらくことがすなわち認めることである。」

 

 のちに「主体性の進化論」として著す、骨子はすでにここに現れています。

 「主体性こそは生物が生物としてこの世界に現れたはじめから生物に備わった性格であって、のちに意識とか精神とかいうものの発達するべき源も潜んでいた。」環境も生物も元一つのものからつくられたもの同士ではありますが、生物には積極的にこの環境を認めることのできる主体性というものが備わっている。これは生物的精神の発露でなのです。

 1999.8