5. 第八講の概説

 私たちがステージを上がるごとに、幸福もまた発展するものであります。身体の感覚に心を奪われている状態、厳格な律法主義者の心境、さらに続く段階の叙述は、そこまで到達していない精神にとっては難解で、狭き道に思えます。ここで大切なことは、これを理解させようとする人の誤解や誤りによって、人を誤解に導かないことです(自戒が必要です)。
  
 まず存在(=神)は端的にあるのであり、何の混じりけを含まずしてあり、神が存在するゆえに、世界(しかしイコール神ではない)も即存在する。この純粋な経験があって、客観的な対象があり、また意識が多様化する。このあと、神と自我、形式(神からみれば自分の存在の端的な結果であるが、人間からすれば認識の臨界面≒神。プラトンのイデアと相同的)についての哲学的な構築がされており、おそらくここも主要部となるとおもいますが、私にとってむつかしいので省きます。ただ哲学的な探求を通して、神が自らのうちに宿りて(自己という皮袋を通して)本源の神を知ることができるとフィヒテは述べているのです。

 神と向き合う自己は、まだそれを対象とする自己をもっています。そこで、愛、信仰というものを実感する自己を持っています。
 しかし、以前に述べた存在の5段階を昇りつめたときに、神と向き合うこともできる自己から、その自己をも神の中に消失してしまいます。「愛を受ける」ではなく「愛」そのものとなったときに、人は完全な浄福へといたります。
 人とは、この神への信仰と愛に満たされた自覚ある存在であり、またそれをも消失した愛そのものの中心点なのです。
 この自覚ある自我、我ありと宣言する自我は、神の被「反省」者でもあり、神が自己をリフレクトした「主体=客体」が自我の定点です。ここが、人間の中心点であり、肉体をまとう人間の中心も、思惟の中心もここにあります。この自我は、無限に神を愛することがアルファでありオメガとなるわけですが、その間、様々なものを愛する旅をしているのだと思います。そのため神に似た私たちも自己を「反省」します。この「反省」は悪いことをしたから反省するの反省より意味が広く、世界を対象化することです。今の使い方では科学に近い部分もあります。この反省により、感覚的な対象をも受ける実感をもちます。

 【1】この自我は、どこかに幸福という得られるものがある、あるいは一切の困苦から開放された天国というところがあるという意識をもちます(と書くとすこし否定的な書き方になりますが、それでもこういう天国を思って生きていられることは善き人生です)。

 【2】もう一つのありかたは、こうした対象への無関心でありました。なんのためにという目的を知らずただ厳格に戒律を守ることのみを幸福とし、法則=自我を目指す世界がありました。これは結局自我を信仰している人であり、他者への幸福には無関心であるわけです。
 
 ここからが前頁の続きなのですが、これらの自我を滅却した状態が訪れます。修行の結果なにかを得ようとしている状態では、まだ得ようとしている自我があるわけです。この自我、たとえば死んだら仏になるとか、自殺したら涅槃にいける(姿を変えた欲望です)などという錯綜した自我をもったままでは決して入れない境地があるのです。純粋に自分自身の欲を否定したなかに、神だけが残り、神がすべての至福が訪れます。これは、いままでの【1】【2】の生とは対立する高次な生の出現です。この世界の参入には妥協を許さない強い念いと継続的努力が必要です。人は同時に二つのことを思うことができないようになっています。神への愛に生きる人は、個人的な自己愛ではいきられません。また排他的な自己愛を捨てたところに、神への愛があります。【2】の世界観に生きる人が、生を法則のための手段としたように、高次な心境の人は、自己の生は、神の意志の手段であり、これが自己の目的と一致しているから幸福なのです。世界が神の手段ときいて、アレルギーを起こす人はいるでしょう。それは、本当の神を知らないから、なにか絶対的権力者のような人物を勝手に想定してしまうことによる錯誤です。世界の全てが神の目的の手段であるということは、どんな人でも「誰か特定の人間の手段であるということはない」ということです。全ての人が目的をもって生きているということなのです。どのような人であっても、神に全てを愛されているのです。

 宗教の世界において、信仰に到るためのきっかけや、そうした傾向の人への愛という観点では現世利益はありますが、その報酬のために神を信じるという傾向のままで人生を終えることは、寂しいことです。さらに、あの世で金銭的富者となるとか、こうした目に見えるかたちの幸福を死後の世界(かならず訪れることは確定している)に移しても、同じ寂しさはつきまといます。それは普遍なる天国を時間に依存させただけであり真なる実体ではないからです。神は永遠にあるのですから、今この時間にもあるのです。「主よ、この世の苦難を耐えますから、あの世では祝福してください。」という信仰は、祈りの入り口(手前)です。「主よ。ただあなたの御意志が実現されますように。」こう祈ってとらわれない心境を持ちたいと思います。神を愛する人は、神の今と永遠にわたる実在こそで十分なのです。

 流れては消える心に支配されず、またこうした心を恐れるあまり無関心に逃げ込むのでもなく、自らの意志で、自らの心を統御し、自己を神の業の手段として、現実的感覚をありのままに受け取る生の段階がここで説かれているのです。
 
 信仰者にも、信仰なき人にとっても、神の慈悲は訪れています。こうした内的世界を持つ人にとっては、人生の紆余曲折は神の意思と受け止めるのですが、ただ、内的世界観がない人には、その神の世界へと導く慈悲は外的(偶然として)におこるので苦境や苦悶として受け取られることが多いようです。しかし前にも述べましたが、こうした「苦」こそ、人が天使へと近づくための、そして幸福に到るための導きになっているのです。感覚的享受からは、何一つ真なる幸福は得られないという無常観が、悟り(=求めるべき幸福)への第一歩になるわけですから。

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