第六講の概説

 この章は自説とキリスト教のすり合わせといっていい。自説のまったくの新しさを誇るのではなく、キリスト教にすでにある真理を再述していることを説明する。とくに哲学的色彩の強い『ヨハネによる福音書』を元に神を弁じる。特に聖書の威を借りているのではなく、解釈の洗練をおこなっているところもある。その声はとても勇に奮い、本書の中でも評価の高い部分とされるが、フィヒテもついでに述べたといっているのでここも割愛します。


第二部

第七講

 ここまでの講義は主に幸福とは何かの定義であり結論でもあり、そこにいたるための理論であった。ここからは、本書の第二部にあたり、より詳しい方法論でもあります。
 幸福は一なる神への沈潜であり、不幸は多様なる者への意識の散乱であったが、多様なる外的環境を考えなくても、自己意識が散乱していること自体が不幸な状態なのです。環境(意識の対象)なしの自己意識の活動のみによって意識が発生するのがフィヒテ哲学の特徴だからです。
 深い意識の集中なくては、心は川のながれのように流れさってゆきます。あれが欲しい、あれが心配、あれはどうなの?と思っているときは、考えているようでいて実は自分以外のものに流されている状態です。これは精神が眠っている状態なのです。瞬間瞬間をあるがままに一者として受けとる力を持たずに精神は目覚めたとはいえないといわれます。この状態では、なにかを漠然と愛しているようで、なにも愛さず、関心も持たず、自分自身も見つけられないでいます。本当の自分に関心がないということは、すべてのものに関心がないことと同じであり、盲目的な人生を送ることとなります。相対世界に埋没しながら善とか悪とか論議しても、こうした善を行うことで感謝され、悪を犯さないことが感謝されるべきものだという誤解を生むことになります。本来素晴らしい生を軽蔑することをやめ、居心地のいいまどろみから抜け出す道を考えなくてはなりません。

 そこで第五講で述べた五段階の境地のうちの最初の四段階についての考察を深めてゆきます。この四段階にふくまれない最下層と最上層については触れません。
 幸福とは愛するものとの一致であります。これを得ようとして人類の歴史がつづいているのですが、まず全てに先立って愛する対象は、本当の自己です。ただし、神が自己と向き合っているが如くに。精神が自己を愛した時に愛そのものとなり幸福を得ることは何度も繰り返していますが、その自己にまず気付くために、苦悩というものがあるのです。ですから逆説的には、苦を感じることは、感じる主体が与えられていないことよりも確実に幸福なのです。苦悩こそが、完全なる愛への一致に進むための原動力です。

 【1】この世の世界のみに実在性を感じる世界観では、身体の感受作用のみが世界であり、支配的な力をもっています。この感覚も、また低次の対象とはいえ愛の働きです。美味しい!美しい!ということは、私たちに対象への愛を感じさせ、自己を知るきっかけとなります。優れた芸術家のようにこの感性世界から精神を発展へと導く方もいます。また次への移行段階として、感覚に基づいた世界に生きながらも、将来の貧乏をおそれて現在の貧乏を耐えるとか、あるいは来世の豪遊を夢見て今は善行を積むといったことで、まったくその場限りの盲目の生よりもよいとして、まだ感覚的世界から抜けきれていない段階でもあります。しかしやはりフィヒテはここに重きをおかずに、話をすすめます。
 
 【2】精神的な法則に実在性を認める段階。自己が自己の立法者である世界です。これは感覚的世界に支配されず、自らが法則であり、これに従うことでかえって自由であるという見解です。これはまた高度な生き方でありますが、第一の世界が世界の全てと思い込んでいる人からは、煙たがられることでもあるでしょう。中期カントの思想にもありますが、「〜であるべき」という自己内の命令に従う生き方です。「〜べき」と思うこと自体、たいてい感情とは対立するものでありますが、この境地にある人は、欲や感情、心をほったらかしにして築いた傾向性よりも、法則をこそ愛しているので、この命令に従ったときに満足を感じ、破ったときに自己を激しく軽蔑します。この法則は自己でたてるものでありながら、世界にも当てはめようとします。この法則を守ったものは軽蔑に値せず、破っているものは軽蔑し非難するという世界観です。自らの法則に基づいてやましいところがないことが、最大の幸福であるということです。
 なかなかこうした生き方は難しいものですが、それでもフィヒテはこの生き方を、精神的な生き方の中では最初の段階であるといいます。この生き方では必ずしも神は必要でなく、自分自身が自分の神です。結構こうした人は現代にもいますよね。これは自己満足の幸福感に近く、この幸福感覚を与える神以外は存在しないことになります。これは本当の神ではなく、いずれ見放さなければならないのです。この世界へ至る道は、偽者の幸福を捨て去る手段であり、人類(西洋人)の歴史の段階ではストア主義の時代にあたります。しかしここで留まらずに、正しき方向へと向かっている途中であるのならば、またストイックな生き方を極める中にも幸福への道はあるはずです。
 ここでフィヒテが、この第二の世界観、幸福に対する消極的で無感動的な幸福を最高のものとする世界観を述べたのは、ここから昇る高い世界観の把握に必要なことだからです。
 親鸞聖人が戒律を破ったことへの自己処罰の呵責から、どのように自己を救済したのでしょうか。

2003.10

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