6. 第九講の概説

 
冒頭に前回のまとめがあります。我々が、何かであろうと欲するあいだは、浄福にはいたりません。ほかの誰かになろうとしても、本当の自分にはいたらないように。にせものの自分は、光に対する影になっているからであり、いかなる感覚的対象も人間を満足させることはありません。さりとて、ストイックに生きることも不幸ではないが、それのみでは浄福とはいえない。自己を神の御業の手段としてみなせる、本来の道徳性の中に生きるとき、人は幸福に至る。このように気づいた方の人生はどのようなものであるか。 
 この境地では、感覚的な世界、可視的な世界全体は、本当の自分にとっての単なる手段に過ぎません。本当の自分である内なる神は、他のいかなる素材に由っても説明されず、感覚を超えた純粋な経験としてあります。こればかりは、純正の自己であり、他のものを含まず、他のものを介在しない。自己が光となるこの同一感は最高度の喜びとなるでしょう。
 これを解説することは(体験には何も介在しないゆえに)不可能であるが、あえて特徴付けるとすれば、それは美として顕れる。美の源泉は神においてのみ存在し、その霊感を受けた人の心に顕れるのです。

 フィヒテはここで芸術論を述べています。
 美しい聖女を思考の内に直視することができるでしょうか。その聖女は、自分の美に一つも捉われることなく、ただ神の御手足となることのみに没頭している。この聖女の思いこそが美であり、その結果身体的なる美を産み出しています。彫刻家であっても、美しい女神の像を刻んだのであるならば、その彫刻家の心が美しかったのであり、また、鑑賞者の心まで美しくします。この平凡社版の原本『浄福なる生への導き』のカバーには、フィリップ・オットー・ルンゲ(1777-1810)の《朝》が効果的に用いられています。ルンゲはフィヒテとも親交があったドイツロマン派の画家ですが、彼の眼には、自然現象の中に、崇高なる精神が観えていたのでしょう。自然が神と関係がないのであるならば、自然は一つも美しくないといいきれるのです。ここで、自然の中に、「やはり、この生命を育んでいる、大いなる力が働いている」と観えるためには、自然の崇高さに勝る崇高な心が自らに宿っていることに気づかなくてはなりません。

 (途中省略)
 一人一人に必ず与えられている使命を把握すること。
 
第十講の概説

まとめ
 生は、それ自体一つであり、永遠の姿をしている。神の愛に満たされた完全な浄福である。この幸福は、偽物の生、無明によって阻害されるが、その苦を消し去ることによってまた、発展してゆく。

 本講は、この発展の運動についてではなく、生の中心点の本質についての章です。完成を理念とし、阻害するものを克服し、人は幸福のステージをあがって無限の向上をはかってゆきます。しかし、得られた幸福を感受しているうちは、「感受する幸福」自体が対象となり、それを反省する自己はまだ残ります。無条件に真理の深遠と同化することは可能なのでしょうか。

 根本の神は存在します。その神が存在するという第一根拠は、「心」、心の法則です。であるのに、個の心では、絶対の神を把握することはできない。精一杯、精神力を尽くして純粋な神としての一端を全力でつかむしかないのです。しかし、一体まったくの絶対が、どのようにして我々とつながることが可能なのか。答えは、そうなるべくしてそうなのである。
 それは、神を相対的に見る(例えばもし神様がいたら・・・)のではなく、その相対的に見ることをやめ、ただ見ること。愛すること。神と人とを結びつけるのは愛のみである。神を愛する座標(自我)は必要なく、ただ愛すること、神が神を愛するが如くに。そのとき自分は、たんなる透明なパイプであり、愛そのものです。神を客観視しようとすることが神を知るのではなく、愛することが神を知る行為なのです。愛こそが真理の源泉です。愛が第一原因となり生命や時間を生み出し、反省が世界の創造を進めてゆくのです。そしてまたその創造の原動力は、また神への愛なのです。五官による認識も、形而上的な認識も超えて、ただ純粋な愛の中に生きるとき(その生を振り返ることも、誇らしく思うことさえなく)、この著作でフィヒテが導きたかった浄福へ至るのです。神の愛に生きよ。フィヒテはそう語り、そう実践したのでしょう。
 すべてが、神の愛の中に生き、一人一人の使命の中を生きるとき、世界は「一つの愛」の展開する現象となるでしょう。神の幸福に包まれた人は、全ての人の生の中心に愛があることをかけらも疑うことなく、人を偽りの生から救い出し、その愛に導くよう活動をやめないのです。
 

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