3.第四講の概説

 この章の冒頭には、今までの概説が書かれています。
 フィヒテは『人間の使命』という著作で、守護霊との対話(この表現は前述『シュタイナー哲学入門』)を描いていますが、ここで述べていることも、神と神につながる守護霊(本物の自分)に自己を結びつけよということです。しかしもちろん神全体を物体として捉えることはありません。どう人間に把握できるかというと、愛という人もいれば、感謝、勇気、光・・・おそらくそれを反省によって表現するときにその表現は様々になるとおもいますが、「知」と捉えるということもできるのです。世界全体を一瞬で「知」と捉えることができるのでしょうか。フィヒテはそれが可能であったのです。だからこそこの幸福な状態に至る道を、哲学として表現したのです。フィヒテの哲学は宗教的といわれますが、これは無神論論争に巻き込まれたので宗教的に装ったわけではなく、はじめから宗教的であり、カント以降に生まれなければきっと宗教家となっていたような方です。神が唯一姿を現した像が、「神の知」であるのです。私たちは努力すれば、この神の知と同化することができるのです。先に述べた様々な相対的なものから思惟の対象を放ち去り、自己自身となる過程は、また純粋知を目指す道でもあるのです。

 個人の幸福への条件は、[神−真の自己]の関係を知り、自己の中心にある神のまなざしを常に意識してはなさないこと(またその大切さを説く宗教があること)です。しかし現実をみれば、私たちは常に不変の一者と一体になっておらず、主の御心のままの世界が展開していないのも確かのように見えます。これは理念において本来はありえないことです。そこで純粋知からの風景と、現実に感覚される風景との矛盾と、両者の真なる姿を観なくてはなりません。ここでは神と神の身体(像;知)との分離がどのようにおきたか、意識論的にのべられており、存在論的にのべるシェリングと対照的なのですが、あまり詳述したら本書を実際に読む面白みがないので、ここは割愛します。神と神の像との分離を「反省」による第一の分離とすると、神の像(神にとっての第一の対象であり、人智そのものかその根源、また世界の理念)が人によって多様に見えるその第二の分離の説明が必要となります。この分離の原因は神にはなく、私たち個々人の世界の認識の仕方に原因があるのです。これらの分離の説明は、また悪の発生原因でもあるのですが、世界をどう認識するか、という個人の思いの実力に責任が発生していることでもあるのです。

第五講の概説

 ここで私たちの世界の認識に、五つの段階があるということが述べられています。この次元の異なる認識力の発揮によって、唯一なる神知識は個の数だけ分裂するのです。神の知、世界の根源は「一」なる不変者であるのですが、これの見方によって多様性が産まれるのです。その五つの段階を概説してみましょう。

 【1】世界の解釈として、最も幼く混乱した見方は、前にも述べたとおり、目や耳、肌など身体の受容器官を通した感覚を、認識の真なるもの、最高のものとみるものです。多くの人がこれに含まれるので、本当はもっと丁寧にこの誤解に対して啓蒙することが大切なのですが、フィヒテもこの章では、物事を見たり聞いたりできるその理由によって、それらのものは存在するものではない、と覚醒の一言を放って話を進めます。

 【2】次の段階は、世界を秩序的で平等な法則が治めるものとして捉えます。この見解に立つ人にとっては、世界は、1)ある種の法則と、2)法則に従う自由をもつ人間世界と、3)身体感覚が統治する現象世界の三段階に見えます。しかしこの世界観では、2)自由を発揮する領域と3)感覚に基づく領域の区別が不明瞭であった場合、悪を犯しやすいものでもあります。1)の法に義務として従う道が正しい道として残されます。人類(西洋)史ではキリスト教以前のストア主義の時代に体験したことです。

 【3】次の段階は、同じく世界を法則が治めるにしても、その法は現実世界から導かれるものではなく、かえって世界を創造する法をさします。世界は、1)真善美の法則、プラトンの善のイデアを頂点として、2)これに殉じる人間、3)人間の調和を目的とする道徳法、4)感覚世界となります。この世界にすむ人(【3】の心境の人)にとって、感覚世界(すなわち生活している世界)は、何か物を欲しがる世界でもなければ、評価を求める世界でもなく、道徳法を実現する場にすぎません。キリスト教、芸術など尊敬に値するものがまず目指した世界です。

 【4】次の高い精神は、先の真善美の法則が、個人のものではなく、神の光、神の像そのものであるという認識に立つ立場です。1》神のみが実在という絶対性があります。2》しかし神が存在する、「有」といった場合、それはなにものにとってでもない「在り」は「無」でもあります。3》それでも、神は私たちの空虚な想像ではなく現実的に現れるのであるから、私たちこそ神の生の現れであるといえる。と、ここまでは私たちに捉えることのできる神的存在は、神の知であって、神の像であって、神そのものは無限に私たちから遠ざけられたものなのであろうか。フィヒテは言う。宗教の立場まで自己を高めよ、と。そうすれば、ニヒリズムの世界から解き放たれ、神はまた活き活きと君の生のなかに宿る。「神とは、神に心服した人や神の霊感を受けた人がなすところのものである。」とは、いかにも実践的なフィヒテの言葉です。
 宗教とは一日のうちの時間の決められた中での活動ではなく、日々、一瞬一瞬、主なる神と結びついてその神の念いを実践することにある。自己の精神を、神の愛と、衆生への愛に自らの意志でもって貫徹させる、最高の徳でもある。

 【5】最後に哲学の段階がある。しかし、これは宗教の立場よりも高いというのではなく、信仰の姿を観照した立場にほかならない。この書の「幸福への手引き」という目的からすれば、先の宗教的視点で完成となる。ただすべてのものが一なる神と結びついていることを証明するために哲学はあるのです。

 真なる生とは、宗教的真理のなかを生きるということであり、修行者が感覚世界(現象界)にとらわれないのは、例えば戒律を破る恐怖心からのみではなく、それが幸福とは関係がないことを知っているからである。神とつながりその使命を展開させてゆくなかにおいて、この現象界に評価される仕事をなすこともあるが、それに一切とらわれることなく、求めず、透明な神の愛を、吹かし吹かし続けてやまない活動。これが幸福な人の活動であり、フィヒテもこの講義を行うことによっても、神の一部である自分を実感していたとおもいます。 

2003.10

戻る ホームへ 次へ