2.第二講の概説

 この回の講義は、自説に対する様々な誤解や中傷を批判することに力が割かれている。第一講から直接つながるのは第三講であり、それをスムーズに行うために、当時にあった先入観の排除を目的とする。しかし、ここは簡略になぞるだけで通り過ぎよう。

 私たちは、思いを研ぎ澄まし、純粋な思惟を自らのものとしなければ、にせものの人生をおくることになってしまいます。前の章では神が幸福に不可欠であると結論しましたが、(当時のこと)無神論者と呼ばれることが怖くて神がいることを認めているとか、病気が治る、自己実現がかなうなどの現世利益のみを求めて神を自分なりに加工する場合は、これらは迷信であるといってよいのです。相対的なものとの関係の中で神を信じるのではなく、自らの心の目で、神を直接見ることが必要なのです。この個が神を直接知ることなくして、個の幸福はなく、この目的のために固有の人格があるのです。こうした教えはキリスト教の昔からあり、また普遍的な教えであり、またこうした幸福を得たものは、その時代においてもっとも人を導きやすいような方法で、その道を伝えることに努め、その成果は所有できないものであるから自己の手柄にもしてはならないのです。
 

第三講の概説

 第一講では、真なる生、純粋なる思惟と、偽りの生、誤謬(ごびゅう)のなかにある思いとの違いを述べました。日々の思いから後者を取り除いてゆくことによって、真なる生へと近づく幸福論を説きました。しかしそこに至るまでの迷いながらの生において、この両者の差はどう見分けることができるのでしょうか。
 物質世界はカントが説明したように物理学的必然性によって運行しているからといって、意識もこれを必然的に映しとってそれで済ましていいわけではない。明晰な意識によって、これを吟味することが大切なのです。

 普通私たちは、外の景色を見たり、鳥の鳴き声を聞いたり、排気ガスの臭いをかいだりした場合、これらの対象を視覚、聴覚、嗅覚でとらえ、それら対象物を意識にうけいれます。外の並木や生け垣が存在しないのに、それを意識するようなことは通常ありえません。この場合、外にある対象物が原因であり、その知覚を意識することが結果であると普通考えるが、しかし、その対応関係自体は意識の中にあるのではない。外にポプラの木があるから、「あると思う」ということは意識によって創造したものではない。この物質と精神との並行関係において、物質が先で意識が後であるという考えを、フィヒテは月並な考えとよんでいる。えっ! 
 「私は考える、ゆえに私がある、ゆえに、ものがある」というのではなく、多くの人は単に物があるからあると思う、見えるからあると思う、聞こえるからあると思う、こうした身体の感覚器官に基づく知覚情報が、「思う」ということと考えているのです。この普通に育って身につける「思う」という作業を、あるいは哲学においても「身体的経験が認識を与える唯一のものだ」とする考えを、フィヒテは月並なことといいます。フィヒテがここで私たちに考えてほしいことは、これらの視覚、聴覚、触覚などの身体の受容器官を通した知覚は、思惟ではなく、思惟があってこそこれらの知覚を意識できるということです。なぜ、この認識の転回に気付かなければいけないかといえば、身体的感覚によって日常の思いがリードされている状態は、必然的なことであるのですが、そこを乗り越えないと人間の自由というものがわからないままに終わるからなのです。神を見たことがない、と嘆く人は、まず真の自分すら見ていないのです。

 そして普通に「考える」ということは、感覚器官によって受け取った多様な思いの数々から、どれを選ぶことが不安でないか、どの気持ちを満足させるか、他人を傷つけるだろうがこれは優先させるとか、誰も見てないから食べようとか判断することをいいます。こうした寄せては返す思いの波の中で、どれかを選び、これを自分で「考えた」ということにします。こうして10人いれば10人それぞれ多様な傾向性を築いてゆきます。これらの選択は、自分が考えているように見えながら、盲目的な愛着(執着)、無意識的な嫌悪の感情によって生じているのです。これもフィヒテは月並な考えとします。

 目や耳で受容した情報をそのまま「思い」のスクリーンに受容するということは、思惟の最も低い段階の現われなのです。この状態で何かを願う、祈りをおこなうとしても、どうしても感覚器官に左右された個人的利益を求めるものになってしまうことでしょう。ここからは、努力して少しずつ高い精神性を築いてゆくことが大切なのです。より高い思惟は、こうした感覚器官の助けをかりず、純粋な精神的な対象を心の中に描くようになります。思惟自身、「考える」というそれ自身によって、思惟の対象を創造することができるのです。フィヒテは、「諸君、きみたちは壁について考えてくれ」といいます。学生が壁について考えると、「それでは壁を考えている諸君自身を考えてくれ」といったといいます(『シュタイナー哲学入門』高橋巌;著)。壁について考えている自分は、そのときは自分を意識しておりません。しかし、「壁を考える自分」を考えている時に、思惟の対象を創造しているのです。しかも、その「壁を考える自分」は自己ではありません。考えられた自分は自分ではなく、常に考えている自分が自分なのです。こうした哲学的行によって、わずかに思惟する自分を(この方法では、すり抜けてしまって把握は出来ませんが)垣間見るのです。
 
 ほんとうの考えるということは、唯一なる存在をしっかりと魂で捉えることです。自分自身によって存在する唯一、本当の自分を探求しなければならないのです。一切のしがらみからはなれて、我は我なり、の境地へと達し、ここを考える定点にする必要があります。この「存在」から考えると、今生活していた名前のある自分は、この存在の意識対象、存在の像、存在の影にすぎません。この定点を持つことのない人にとって、思考は物質のなかに埋没した錯覚にすぎないのです。もし目の前の机をたたいて痛いからここに机がある、対象を強く抱きしめられるから愛は永遠だ、科学的な証明こそ唯一の真理だ、という錯覚から覚めることの出来ない人は、まだその先に進むための修行が修了していないことを意味します。
 この見せかけの思い込みを愛したままでは、絶対的な真理と一つになることも出来ず、第一講で述べた幸福へと至ることもなく、かえって不幸です。逆に、哲学書など読んだことがなくとも、ほんとうに純粋に神を信じ、神の愛に包まれ、周りの人の幸福を祈る方がいたら、間違いなく幸福な人であるといえます。

 目に見える世界とこれに端を発する意識は、絶対的存在の像であるにすぎません。私たちの流れゆく身体や思いは投影された像であるのだから、自らの思考の力で、影は影として執着を滅して、絶対的真理、神と直接向き合うこと、明らかに自らの(魂の)力で神を直視することが求められています(ただし直視、あるいは単に直接「知る」ことはできても、その存在理由を知ることには限界があるとフィヒテはいいます)。神は神自身でその存在を神たらしめるが、有限者である私たちは、「神を知る(神の知に至る)」ということで、絶対者との一致をみるのであり、これが最大の幸福であるのです。真実の生をいきるときに、「現実的なるものは理性的である」と実感することでしょう。
 では、絶対者と有限者、彼岸と此岸の分離についてが次の講義となります。

2003.10

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