第一部

1.第一講の概説

 まずここでは冒頭より、「生=幸福」であるという結論を投げかけられます。これが受け入れなければ先へはいけないのです。私たちはこの「生命が与えられていることは幸福なことなのだ」ということを受け入れなくてはなりません。これが納得できなければ天使への道も自然哲学も引き返さなくてはなりません。でも安心してください、いまが至福でなくてもいいのです。同時代のゲーテも一生を振り返って、自分の人生で本当に幸福と呼べる時間を集めても一週間にもならないだろう、というようなことを述べています。おそらくこの著者フィヒテも、毎日が幸福であったかといえばそうでもなかったのではないでしょうか。しかしそれでも、生はかならずだれにとっても幸福でなければならないのです。それでは、人生の多くの時間、幸福とはいえない時間を生きているのは、どうしてでしょう。フィヒテは言います。それは本当には生きていないからです。本当の意味で生きていないとは、あたかも生きているかのような時間を送っているに過ぎないのです。心臓が動き、呼吸しているだけ・・・お腹がすいたらご飯のことが浮かぶだけ・・・・仮に生きているとは、死を含んだまま生きているということです。すべての人間が、生と死の混合の中を生きています。恐れることはないことは、完全な死(救われることのない悪)はありえず、どんな人であっても神の愛をその中心に持って魂は永遠の生を生きています。ただしその愛をどのように使っているか、すなわちあなたが何を愛しているかによって、個人差が発揮され、その使い方によって本当には生きていないということになるのです。そして多くの人は自分が何を愛しているのかを知らずに一生を終え、それがすなわち何も愛してはいない死を含んだままの人生を送ってしまうことになるのです。

  もし「生=幸福」を前提にしてもらえたら、同時に「ほんとうの自分=神」も受け入れたことを認めてください。神と私を結びつけるイコールは「愛」です。愛こそが、人間と神とを結び、生を幸福にするのです。ただし神は神以外ではありえず、ほんとうの自分が愛によってしか神と結び付けないということ自体が、人間が絶対の神にはなりえない理由なのですが、愛が全てを可能とするのです。真に生きているということは、神と愛で一つに結ばれている状態であり、それがすなわち幸福そのものであるのです。これを信仰ともいいます。
 神はまた端的に「存在」でもあります。しかしこの「存在」は普段の会話で使われるような目に見え手で触れるものを「存在する」という「存在」をさすのではありません。物質的な「存在」はすでに非存在を含む、死せるものです。「全宇宙が神である」という時に、その宇宙がもし目に見える宇宙だけを指すのであれば、それは神の一部です。「存在」は一であり、すべての全てであり、永遠不変の神なのです。一方人間の仮の生や世界のものごとは、変化し流れさる諸行無常のものです。必ず流れ去るべき人間だからこそ、不変のもの、永遠のものを愛するのであり、その愛の中にあってこそ人は真に生き、真の幸福を得るのです。そして、変化し流れ去るべきものが、同じく流れ去るべき世界のものを不変のものと錯覚して愛すること、もっとわかりやすく言えば、人が自分のものやお金、肩書き、名誉などかならず消えてなくなるものを愛する(執着という)ことによって、死の呪縛から解き放たれることのない不幸を得ることになるのです。

 神は不変であり、永遠に神であるため、これを愛し続ける真なる生も、不変で、永遠の幸福である一方、必ず消える仮の生は、生成と消滅を繰り返す変化をさまよわなければならない。永遠なる神を愛するものは幸福であり、仮に現れているところの(三次元的)世界を愛そうと試みるものは、むなしい人生をおくることになるのです。

 「この世に存在するもので、その内に滅びの性質を持っていないものは何ひとつありません。」*1)というのが、宇宙の法則であるですから、「苦」を内包した物質的享楽を愛している限り、人生は「苦」なのです。消えてゆくものをつかんでいるから、苦しいのです。ですから、不増不減の不変なる神の内を生きる真なる生は、永遠の今を生き、最大の幸福者である神と一つになって生きることとなるのです。
 
 しかしこの世界といえども、神によって関係付けられたものであり、世界それ自体の深奥も、神に対して一つになろうとする憧れをもちその過程の運動を持っています。世界もまどろみながらも神の創造物であり、私たちはその世界の中に、その手に触れ目に映るものの中に、自分を幸福にするものがあると信じて、つまりそれらのものを愛して生きています。何かを達成したらまた次のものを目指してそれが満足できなければ、対象をかえてまた愛し、むなしい人生を送ります。ただその空しさを真に受け止めることが出来た人が、永遠なる神へと向かうことを求道するのです。こうして私たちはまどろみの世界から抜け出す意志を持たなくてはなりません。

 もしここにたどり着けず、仮の有限的な存在を最終的な愛の対象と信じた時は、その「苦」なるものを愛した結果を自分で受け取らざるをえなくなり、改心するまで迷いの苦しみを享受するようになります。仮に現れているものを愛する傾向をもったままでは、その執着する対象を換えたり、環境を変えたりすれば幸福になるとおもうのですが、ほんとうは自分が変わらずしてはなにも変わることなく、また苦しみの人生を送ることになるのです。あるいは、またこうした対象の空しさをうすうす感じ取り、心におこる欲を無理やり押さえ込み、幸福を求めることも断念することは、一見諸行無常を悟っているかのようにして、やはりまだ迷っているのです。それは永遠の幸福者を愛する勇気もなく、そこから逃げることを愛したやはり哀れな人生なのです。
 さあ、「真なる生は幸福であり、仮の生は不幸である」、このことを信じてさらに、次のことを考えていただきたいのです。

 まず本当にこの幸福を感じることのできるものは自己意識以外にはありえない、ということ。そして神、永遠者と結びつく手立ては、愛、信仰、あるいは神を知ることであるということ。神を何の介在もなくただ知ることであり、これを思考によって可能とすることが、フィヒテの教説「知識学」なのです。真に生きるとは、真理を認識することである。思考の最も高い階梯において、神を捉えることができる。この表明こそ、フィヒテが哲学者であることの証明にほかなりません。宗教家は愛や信仰で神と一つとなることを説き、哲学者は同じ道を、知、思考で捉えようとします。しかしどの道からたどろうとも幸福には変わりはありません。道徳的に生きることは素晴らしいことであり、神へと向かう道でもありますが、もしここで愛している対象が「道徳的行為の結果の評価」であって神そのものを愛していないのであれば、真なる幸福はそばをかすめて通り過ぎることとなります。逆に真に神を知った生であれば、自然と徳ある行為をおこなうこととなります。

 どうしたらこの幸福を享受できるのか。その方法論が本書の内容となります。ここにその要約を書くと、真なる生が最終的に決して愛することの出来ない有限的な対象を愛することを捨てること。そうすれば、永遠者は幸福をつれてあなたの許に来る。幸福をもののようにがっちりとつかみ続けることは出来ないが、不幸は捨てることができる。不幸の去った後には、幸福が訪れるものだ。いろいろな対象に愛を向けているうちは、実はなにも愛していない。この心の散乱が不幸の一切の原因です。愛の対象に神を選ぶこと。これには努力が必要ではあるが、毎日毎日流れては消え留まることのない心を集中し、執着を取り除き、真剣に神を求めることこそ間違いなく幸福の条件である。

 しかしまた、執着を取り除く過程で、目に見え手に取れる対象は、次第に色あせだんだん心とらわれなくなってくるが、それらはより美しく、素晴らしい対象としてもう一度現れてくることになります。これは私たち有限者の宿命ではあるのですが、また次の幸福を生む種でもあります。いずれにしても死すべきものは死ぬ*2)。だから勇気をおこし不滅の神を見る視力を持たなくてはならない。
 フィヒテは自己が幸福であることを自覚していた。だからこそこの神の知に至る幸福への手引きを、このような講義で群集へ訴えたのでしょう。
*1『幸福の革命』幸福の科学出版
*2 本書にも「仮象の生においてはたえず死ぬ。」とあるが、生即死、死即生、自己を瞬時消滅と生成が起きている場の存在と考えることができるでしょうか。この自己を覚知してはじめて、シェリング自然哲学が実体をもって考えられるのです。

2003.10

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