今西自然学の効用 −環境保全の視点から

---「泉曰く「道は知にも属せず、不知にも属さず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不擬の道に達つせば、猶お太虚の廓然として洞轄なるがごとし。あに強いて是非すべけんや」『無門関』19則---


自然の理解

 『自然学の提唱』「自然学に向かって」に、今西さんが『生物の世界』で定義された「種個体・種社会・生物全体社会」という生物的自然の三重構造を、彼の友人・理解者ですら用いずに、「個体・個体群・群聚(コミュニティ共同体)という用語を使われていることに対して、残念な思いを述べています。「私が明快この上なしと思っている客観的自然観が、どうして大学の講義に採用されないのか」と。

 「種社会」の論理化に関しては、カゲロウのすみ分け現象の発見がきっかけとなっているのですが、加茂川の石で今西さんがひっくり返さなかった石はないとまでいわれるくらい、やはり自然の中に身を没して、生物のなまの姿を追いかけていたことを忘れてはならないと思います。将棋でも、プロは、何十手先まで読めてしまい、素人を鎧袖一触で負かしてしまいますが、これも名人は将棋のことばかり考え、経験で鍛え、手筋を練りこんだ結果だと思います。ゲームであれば、その場で勝敗の結果がわかり、指し手の優劣ははためにも明らかですが、これがダーウィンVS今西のような「自然観」になるとちょっと勝負に訴えることはなかなか難しいものがあるようです。

 今西自然観を悟得するにも、名人にならうような師承の道があり、なかなか体系的学問となりにくいの性格上、やはり今西理論を理解し、身びいきになれる人も少ないのかもしれません。今西進化論も、「種社会」や「生物全体社会」という、将棋の手筋のような曰くいいがたいものに通じないと、おそらく理解できないでしょう。冒頭にあげたように、今西さんの近辺の人であっても、「種社会」を手ごたえのあるものとして受け入れる人は、少なかったのでしょう。「種社会」は知性ではなく、悟性でつかむものなのかもしれません。

 冒頭の無門関の言葉(平常是道)、師の南泉は、趙州に、「道とは知る知らないかではない。知ると思うのは妄想であり、知らないというのは自覚がない。もし道に達すれば心は青空のようなものである。そこには知る知らずということはない
」といいました。案外「道」を「種」に置き換えても通じるものなのかも知れません。

 ところが、「生物全体社会」というのは、どうやらもっと人々に理解されているように思います。今西さんの「生物全体社会」は生物社会に限った内容かもしれませんが、これに地理的要素を加えた「ゲオコスモス」、あるいは「ガイア」という一なる地球に触れ、感じ、包まれた経験のある人は多いように思います。
 今西さんも、生涯をかけた「山」への参入によって、自然と一体となる機会をもたれておりましたし、やはり自然を見たり、眺めているだけでなく、自然に溶け込むような体験をしたときに、ありがたい感覚というものを感じるとありますし、これは多くの方が、もしもとめれば体験できることなのかもしれません。あるいはそうした邂逅の機会は、自然のほうが差し出してくれているのかもしれません。

 
「最高の精神の所有者たちが、自然に対する愛をもっているのは、わけがあるのです。魂と物体とは、調和しています。したがって、精神の法則に対して、深い洞察力をもつ人は、それだけ、自然に対する愛が、はげしいのです。」−エマソン「博物学者」−

今西自然観の哲学的根拠
 
 浅学ながらたびたび紹介しております、自然哲学を打ち立てたドイツの哲学者シェリング(1775-1854)も、美的な自然体験を繰り返していたようですが、「全ての者に、一つの秘められた、驚くべき能力が内在している。われわれを、時間のうちで生じる変転から、最も内なるものに引き戻す能力である。そこれわれわれはわれわれのうちにおける永遠なるものを直観する。この直観は最も固有な経験であり、われわれが超感性的世界にるいれ知り、また信ずるところのものは全てただこの経験のみ依存している(部分省略)」という秘教的<エソテリック>な「知的直観」を学問の方法の要にしております。
 
 「自然体験」は知的直観そのものではないですが、知的直観をとおして見られる自然の具体的でなまのままの理解なのでしょう。精神的な直観によって橋がかけられた自然は、やはり精神的なもの、「自己自身を有機的に組織化する自然」、つまり「主体的な自然」!!ここに、今西進化論・・・「主体性の進化論」の哲学的裏づけがあるように思います。ただし、シェリングも今西さんも、やはりそこまでに自己を到らせる学問的方法論を伝える情熱が薄い印象は受けます。

環境運動の動機の分類

 ただ、こうした経験、ガイアへの親和性が、理解されているように思うわけは、環境問題への意識の高まりや、環境保全を提唱される方の情熱の出処が、こうした自然との直の経験にあるように思えるからです。今の時代を生きる(日本)人にとって、環境問題は、必ず考える機会はあるでしょうし、何かしなければという気持ちもあるでしょう。こうした地球、この星の未来、かけがえのない美しい星のことを考え続けて、それをまた守りたい思いがわいてくると、おそらくその小さな愛が導きとなって、大きな「地球愛」というような私たちを包んでくれていた存在を経験された方が多いのではないか、またその愛に目覚めて、保全活動を続けている方が多いのではないかと思います。

 ここで、環境運動に従事、あるいはボランティアで参加している方の動機を、いくつかの類型に分類できるか試みてみましょう。

0. 文明否定、資本家への嫉妬、資本主義への原罪感、単なる野党的闘争心の解消、ルサンチマン、隠れた左翼運動といった、マイナスの感情で活動する人々。
  これは、現社会を破壊する力こそあれ、環境と調和した新しい文明を創り上げる動機はなく、かえって環境保全運動を誤解させる人たちに当てはまるでしょう。

1. 功利性、恐怖心などの感性が動機となっている人々。
・ 環境保全を看板にすることによって、会社や団体の利益になるから活動する、予算配分など自身にメリットがあるために環境保全を行う人々。本心は環境のことなどあまり考えておらず、リサイクル事業などといっても実態をみればエネルギーコストが余計にかかっているようなこともありえるため、より専門的な知性が協力しないと目的が逆になっていることもある。
 純粋に環境運動をされている方からすると、偽善に感じてしまうが、こうした人々がいなければ、現在の諸問題を打開するスピードは遅くなる。しかし、本能的にこれが最高の考え方とは感じないように、やはり環境保全を行うことが価値、利益を生むという社会を構築する方向で智慧を出している人のほうが、一枚上手でより高次の考えとなる。

・ 環境破壊は人間の技術によって起こしたのだから、これを解決するのはやはり技術だとする人々。これも本心は自然環境にはあまり思い入れがないが、時代が環境保全、静脈産業にニーズがあるために、研究・開発している。知名度や研究業績など、一定の評価は与えられ、これがモチベーションとなる。しかし時代が大量消費型経済礼賛の時代であれば、やはりこれを支持するような研究をしていたであろう。つまり時代性からは脱却できていない。これが発展すると、義務、責任感に裏付けられた、より素晴らしい技術開発を行う心境となる。
 環境問題を実際に解決する力となるのは、こうした技術を磨いている人たちの力が大きい。環境破壊の実態調査やクリーンエネルギーの開発など、技術によって環境保全に貢献されている多くの方々の努力なくしては実効ある活動はできない。

・ 書籍、テレビを通じて得た知識によって、地球が危機に瀕していることを知り、活動を行っている人々。前2者が主に功利性をもつことに対して、恐怖心が動機となる。
 この類型のなかには純粋な人が多く、節約やゴミの分別などストイックな行動も実践できる。また未来の子供のため、自然、野生動物、絶滅に瀕した動植物のためという受益者の対象も自己を離れた他者を持つ場合もある。しかし感情のレベルで動く人が多く、正確な知識や教養によらないと、扇動もされやすくかえって正当な意見を封じる側に立つこともある。
 一方、恐怖心ではないが、やはり感性のレベルで、篤農家や樹医など個々の生物と対話をする立派な方もおります。

2. 義務、責任感を動機とする。この義務感は次第に純粋なものへと昇華する。
 現在を生きる人類としての義務を感じ、未来の人類が享受する幸福に責任を感じる人々。たとえば過去スペインなどヨーロッパ人による中南米の侵略や、貴金属の収奪があったときに、同時代にいながら同国人に対して警告を発せられるような理性の持ち主。地球環境の破壊に対して、知性、理性でもって人類に警告を発し、また人々が環境問題を改善できるような社会を、構築できる力のある方。本当の悪とは、悪循環のことです。環境問題における悪循環を断ち切り、単に製品を作るのではなく「リサイクル・リユースが可能な、素材ー製品ー回収物を一つの円環とした回路」を商品とする開発など、政治的、技術的にも卓越した力を持つ。人数は1.に分類される人よりも少ないが不可欠な人々。生態系の保全、多様性の保全などに関しても、結局、人類、あるいは持続的な人間活動のため、そうしなければならないからする、といった人間中心的な発想はある。また生物を自動機械のように考えていたとしてもこの人々の主張は成り立つ。

リサイクル商品 ついでに・・・類似の発想が自然の見方にもありえる
従来は製品を発明 生物といえば個体しか見ない(ダーウィンやラマルク)
製品を一部に含む円環経路を発明(一つ上位の発想) その上位概念の種とその表現である種社会が観えなければならない


3. 心は透明で、美しい動機をもつ。アニミズム的感情が地球規模に発展した場合もあれば、全人類への愛を動機とするケースもあるが、その両者がまだ融合していない。
・ 純粋に自然を愛し、自然との精神の交流を体験し、失われてゆく自然に涙もし、美しい地球を理念と出来る方々。美しい自然との感動や驚愕など、何らかのかかわりが必要で、自然に対しては感謝の思いが強い。心は清いが、悠々自適な自然豊かな世界に逃避し、時々影響のある思想などを述べるが、多くの人の模範とはなりにくい。自然や動物、子供は好きという中に、大人が嫌いという反動も見え隠れしているのかも知れない。ただしこうした方の思想に触れて感動し、環境への関心に誘われる人は多く、牽引力となっている。もう生物が機械的とする考えは消えている。

・ 純粋な人類愛に基づいて行動できる方。

4. 純粋な人類愛と、自然環境、生命たちへの愛が調和している状態。大自然の愛を知りつつ、それを守る活動もできる。
 西田幾多郎に「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」とあるが、地球環境を憂える中においても心清く生きている中に、純粋経験としての「守りたい!」「生きたい!」という愛の念いそのもの、何億年もの生命の奔流が駆け抜けてゆく神秘的な体験を使命あれば得ることがあるでしょう。後から、これは自己の思いであったか、自然から与えられた思いであったか、など分別を働かせることはあるが、神秘的時間の中では、その愛の思いに包まれるだけとなる。精神と自然が同一と知る。

  恐らくはこれ以外の分類もあるでしょうし、またどれか一つの分類に入るというものではありません。環境問題ということに限った分類です。例えば3.の人に、0.の思いが混ざると、自然は愛するけれど、人間は嫌い、文明は嫌い、人間は自然に帰るべきだということを言い出すかもしれません。えてして、人間は他の生物より後から侵略したのであって、もっと長い地球の住人を大切にすべきだとか、人間と自然の価値を逆さに考えている人がでてきます。これは一見自然に優しく見えますが、自然を偶然の支配する機械と冒涜するダーウィニズムに敗北した考えです。
 心は3.の段階にあって、手に技術があったり、1.の人と協力体制が組めるならばより素晴らしいことです。人や本、映画などに出会って、心境の中心部分が0〜4までいろいろ移り変ることもあるでしょう。

 
環境保全と今西自然観
 
 そして、環境保全に貢献したいという動機のなかから、少しずつ、0.や1.の要素を拭い去って、また今西さんのように登山や自然に触れる機会をもって、自然精神を感じることが出来るならば、地球環境保全のために活動する人材の輩出ということも、今西自然学の効用・応用の範囲に入るのではないかと思います。

 また、すでに何らかの方法、体験を通して、この類型の中で、3.の心境を経た方は、恐らく、冒頭の一つの地球精神、ガイア、ゲオコスモスといった精神と共感できる存在を感じ、その自然がくれた愛を活動のエネルギーとしているのではないかと思います。そしてこういった方は、逆に、今西さんがいう、「生物全体社会」という、地球上の生物個体全てを含み、かつ全個体を単に集めただけではない、一であり多でもある実体を、ある程度理解できるのではないかと思います。種社会は、もっと、より生物学的な関心がないと理解が難しいかも知れませんが、生物全体社会を形成している下位構造になります。透明な心境で、環境保全のために身を投げ出している人は、また今西自然学、進化論のその自然の主体性の部分を理解が出来るのではないかと思います。
 美しい環境を大切にする心で、生き物たちの姿を見続けていると、そこに自然の法則にしたがってすみ分け生活している生物の社会が、観えてくるでしょう。種社会が、主体的に棲み分け、そのすみ分けの密度を幾重にも積み上げてきた姿が生物進化であったことに理解が到るでしょう。
 

 一応本サイトは、ヤフーの<エコロジー>のページに登録されている(生態学のつもりでしたが)ので、それらしい論点も加えてみました。
 

(今西錦司の世界)
2005.1

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