書籍紹介2

 

「ダーウィン論」   今西錦司著   中公新書

 1977年(75歳)の著作。老躯に鞭うって、ダーウィンの「種の起源」を原著で読み直し、自論との照合をおこなった著作である。本書には、ダーウィンの説を批判しつづけてきた彼が、あの世にまでその批判を持ちこもうとしている執念と誠意がこめられている。ダーウィンを立てて、自説の展開はその下でおこなうよう書いてはいるが、しかし、中身は徹底したダーウィニズム批判であることは他の著作と変わりがない。

 今西氏が終生批判しつづけたダーウィニズムの骨幹は、自然選択(自然淘汰)説であり、また、その結果演繹される、漸進的(少しずつ変わりつづける)な変化という点である。さらに本書では、「種の起源」でダーウィンが進化という現象を合理化するために用いた補助的な考察にまで、批判の手をゆるめていない。

 ダーウィンは、生物の個体差という事実を足場に、進化仮説を導いた。個体差があることはまぎれもない事実である。しかし、その個体差しか見抜けなかったダーウィンの自然観と、種社会を発見しその主体性を認める今西の自然観の対決は、ヒラメ対人間(二次元対三次元)の勝負にたとえられよう。人間は、もちろん上からモリでヒラメを突くことができ、対決以前に勝敗はついている。しかし、もしカレイが審判であったなら、なぜヒラメが負けたのかその理由はわからないだろう。「種社会」という次元の軸が増えた概念が理解できなければ、どのように今西氏が虎視眈々とダーウィニズムにねらいをつけているかという過程は楽しめないのだ。

 しかし、生物は変化しないという堅牢な神学思想の中で、生物が変化する事実をひろめ、その理論を構築したことに対するダーウィンへの賛辞は忘れていない。本書では、自論のルーツを訪ねる目的もあった。今西が種社会を発想するきっかけになった棲みわけを、ダーウィンが認めていた点に、すれ違いの寂しさを感じる。

 

「自然と進化」  今西錦司著   筑摩書房

 

 1978年の随筆集。多くの雑誌などに掲載された短編の、寄せ集めのようにもみれるが、一章、一、二節の「自然と進化(一)(二)」は、1976年の講演会の内容をおこしたもので、それぞれわかりやすい今西生物社会学講義、今西進化論講義となっている。この二節を読み、考え、理解すると、他の書籍も読みやすい。今西自身が語る入門書として最適なのではないか。

 自然における生物の理想(理念)は、階層的に「生物全体社会」、「同位社会」、そして基本単位として「種社会」となっている。それが現実化すると、棲みわけという現象になる。

  この一文が理解されず、今西錦司というとただ、「種は変わるべくして変わる」「棲みわけ論」「東洋的」など、言葉だけが屈解されているが非常に残念である。

 この現在に見られる自然観が理解できずに、進化という歴史は理解できない。歴史とは現在の視点でいくらでも変わる。

 左翼系統の方から万葉集を見ると、さまざまな名歌や為政者の慈愛は無視され、山上憶良の「貧窮問答歌」が知らなければいけない問題として取り上げられる。大仏建立という世界史的事業、日本史に残る巨大な遺産も、大仏の建造技術と路傍で死んでいった人のみがクローズアップされてくる。歴史をどう見るかは、現在のフィルターを通した視点でしか見えないのだ。現在という時代性から、科学もまぬかれることはない。

 進化は純粋科学であり、そんな現在の視点で変わるわけがないであろう、といわれる方もいると思います。このホームページで探究してゆきたいものこそ、その純粋科学の進化論なのです。

 19世紀以降の個人主義という狭い人間の視点から、生物を個体(個体差)に着目しても、これを遺伝子にまで還元的に分析しても、自然というものはそのすき間以上の姿を見せてはくれないのです。

  今西さんの書籍の中からまず最初の一冊は何か、と問われたときに、私はこの本を推薦する。一二節を繰り返し読むことにより、「読書百遍義自ずから通ず」であって、見えない種社会のとらえどころが見えてくると思う。

 

「進化論-東と西」      今西錦司著  レグルス文庫

 

 1978年、飯島 衛(いいじま まもる)氏との対談。

 種が変わるときは、「表現型も遺伝型も共時的に変わるものでなければならない」という一文が、分子生物学者に理解できるかどうか。メンデルが類推していた遺伝の要素(Aとかa:ラージエー、スモールエー)は、現象の奥にある概念であった。しかし、後の研究により遺伝子がDNAという物質であると判明すると、遺伝子型、表現型という分類がなされ、遺伝子が細胞内で何か特別の存在のように格上げされた。しかし、DNAも物質であり、その意味では表現型なのである。変異の結果であるとみる観方があるということを、忘れてはならない。

 飯島氏との対談では、種社会における種の個体のあり方を論じる目的もあったが、これは成功しているかどうか。西田幾多郎、柳田国男、西堀栄三郎らの話をまじえつつ、唯物論では見えない世界の洞察を語っている。

 今西自然観理解の要諦は、当ホームページではいささかしつこいながら「種社会」の理解である。種社会は、それ自身が主体性を持っており、種の個体は、種社会に対し帰属性を持つと考える。つまり個体は種社会の維持存続に貢献してるとする、全体論的な視点である。

 この帰属性のありかを、本書ではユングのいう無意識の世界あたりに見当をつけているのも、見逃せない。

 

「ダーウィンを超えて」  今西進化論講義   朝日出版社

 

 1978年、吉本隆明氏との対談。が、対話がうまくかみ合っているとは思えない。

  この著書の会話の流れで、恐竜時代から哺乳類時代へ移行した際になぜ生き残った恐竜(爬虫類)が、もう一度適応をして生物全体社会の主役にならなかったかという説明で「爬虫類はそれまでに、進化のエネルギーを使いすぎ」ているという、受け答えがある(p52)。もちろんこれは、はぐらかしたような比喩の表現ではあるが、「進化のエネルギー」という言葉に注目したい。歴史の中で展開された、生物の形態や行動を変化させてきた仕事の要因を、一つのエネルギーの働きと見る考えは、今後検討されてよい課題と思う。ここではさらりと出現しいるだけであるが。

 その関連として、「生物の世界」にも現れているが、全体社会の安定している(全体社会にとって部分の変化が望まれていない)時期、場所に、そのエネルギーの具現化がおこなわれると、それは生物体の精巧化になると考察されている。オウムガイの殻の紋様や、昆虫の形態のスマート化のような、全体社会に大きな影響を及ぼさない範囲で、生物は芸術の精緻を極める傾向--小進化---はありはしないかという、自然を率直に見た考えを披露している。

 

「主体性の進化論」    今西錦司著   中公新書

 

 1980(昭和50)年の著作。

 今西は、以前よりラマルクの獲得形質の遺伝と、進化の要因としての生物の主導性を高く評価している。しかしここでは、ラマルクもダーウィンも、適応に対する関心より進化論を導いた点で、切り捨てられている。適応とは何か、知っているようで、口にしようとすると、何も知らないことに気付く。カマキリの前脚は、獲物を捉えるためにたしかに適応しているように思える。しかし、バッタはそのような前脚を持たないにも関わらず、同様に種の維持を果たしている。一体適応とは何に対していっているのであろうか。ペイリーが神学擁護に用いた適応という呪縛から、自由になれなかったのではないか。これは、本書で結実した論点であろう。

 ダーウィン以降の正統派進化論を支えたものは、突然変異説である。この方向性のない、遺伝子複製の出来損ないが、自然選択にまかせ積み重なっていまみる生物ができたという説が、基礎的で、満足すべき仮説と信じ込まれていることは、どういうことであろうか。突然の変異。因果律もない、理論でも何でもない現象は科学理論ではなく「賢者の石」、錬金術である。

 ここでダーウィニズムに氏の進化論のルーツを探すことから離れ、ダーウィン以外の進化論の批判へと入ってゆく。進化という地球史の一回きりの道筋に対し、近代科学の眼鏡ではなく、歴史論として扱う態度もあらわれてくる。セオリー求道の思いはやまず、遍歴の旅は続いてゆく。

 

「自然学の提唱」  今西錦司著   講談社

 

 1984年の著作。近代科学が、キリスト教的世界から抜け出してできたようにいわれながら、その実、ヘブライズムの思考習慣から逸脱していなかったように(いや一神教文明であったからこそ科学が成長した)、ダーウィニズムも、神学の創造説を否定したようでありながら、自然選択という考えが急速に西洋世界に受け入れられた背景には、選びの神エホバ、聖書の選民思想が横たわっていることを指摘している。本書は、短編を多く含み一見雑多な印象をうけるが、収録の一章「自然学の提唱--進化論研究の締めくくりとして--」は今西晩年の思想をも紹介した、今西進化論の手頃な入門書にもなっている。

 

 昆虫学、生態学、人文科学、進化論と漁渉した今西氏は、自分が求めていた学問とは何であったのかを振り返り、「自然学」の定義をほどこした。自然学者の今西として「自然学の提唱」をおこなったのである。還元主義を超え、全体論的立場から類推による世界観の把握をめざす。

 その「学問の究極」では、予言性についてふれている。ハレー、ラボアジエ、メンデレーエフ、アインシュタイン・・・。一般の人々に、科学理論がコミットする歴史的瞬間には、やはり予言をあてるという手段が大きな役割を果たしている。もちろん現象を説明できない科学理論など空想にしか他ならないのだが、天動説の時に人類が体験したように、われわれは時に現象に合わない理論でも、周転円(エカント)などを持ち出し延命させるといった、既成の理論への執着を見せてしまうことになる。

 学問に進歩と、予言性の関係は切り放せないものがある。

 

「進化論も進化する」 対談:柴谷篤弘  リブロポート

 

 1984年、柴谷篤弘氏との対談。氏は「今西進化論批判序説」の著者。

 今西論の形成には、西田幾多郎の哲学論文集第二巻「生命」、親鸞、スマッツ(全体論:ホーリズムの大家)の影響をうけていることが語られている。

 二人は、自然選択が種の起源に関与していないと考える点で一致している。しかし、ダーウィンの棲みわけに抵触した部分など、「種の起源」にある多様な言説をうけて、今西理論と両者を添い遂げさせることはできないかと(対外的な紹介をする親切心で)試みる柴谷氏と、種社会という全体論と種の個体のレベルを峻別する今西氏との対話から、まるで片目でペン先を合わせるような微妙な食い違いが感じられて面白い。司会の米本昌平氏の誘導も、本書の性格に一役かっていて学術性を保っているようだ。

 「種は変わるべくして変わる」ことを、分子生物学の視点から柴谷氏と米本氏が肉付けしている。

二人が分子駆動(モレキュラー・ドライブ)を持ち出してくると、「分子駆動が起こっているときは、まあ言うたらその分子をもっている個体はみなそういうふうに動くんやろな」と自説に吸収する速さを見ると、今西氏の頑強な全体論的思考がうかがえる。

 ほか、社会生物学が日本に上陸した当時の学問界の動きなどが感じられて、興味深い。後半、柴谷がまとめたネオ・ダーウィニズム批判が一覧できる(p.161)のも便利である。

 

「自然学の展開」  今西錦司著   講談社

 

 1987年、85歳の出版。「自然学の提唱」と同じく、書名と同じ論文と、ほかいくつかの随筆集となっている。本著で、ご自身の自然学とゲーテの自然観との接点に触れているところがあるように、

今西自然学は、詩人の直観が、その対象を現象(自然)へとうつしたときにあらわれてくるものである。

  種社会と種の個体を結ぶ関係に、帰属性は不可欠である。その締めくくりとして「プロトアイデンティティ論」(原帰属性)を取り扱っている。さらに、この本能的に守られている原帰属性から、個を解放するのは種の文化であるという論は白眉である。本章で挙げられた論点は、今後生物学の向かうべき方途の示唆を、数多く含んでいる。

 芸術家は対象の美に衝き動かされると同時に、美が内に宿りて、自分をして芸術を世にあらわしめんとする。今西氏の、一生にわたる著作の数々も、山を通してつきあった自然や生物の世界に対する愛が、それらをなさしめたように思える。近年の生物学者で、物理学や数学、名誉や収入、生活を愛した人は数多く拝見する。しかし、今西氏のように純粋に生物の世界を愛し、それを自分のものとせず、反論に屈せず世に問おうとした情熱の持ち主は、数少ないのではあるまいか。

 本書の最後に、「世界宗教の出現」という短いエッセイがある。釈迦とキリストを、尊敬する人物にあげ、このような偉人が現れることにたいする淡い期待を告白している。「しかし、こんど現れるときは、一人で出てきて、一つの世界宗教を作っていただいたら、それで十分のような気がする。」この文章で、最後の著作の最後の言葉を終えている。