進化の力(1)

---自然そのものが必然的かつ根源的に我々の精神の法則を実現していること、そればかりか、
自らそれを実現し、そのかぎりではじめて自然であり、自然と呼ばれるといいたい。
自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然でなければならない--- シェリング『自然哲学考案』

最近はテレビのドキュメント番組でも、生物の進化が宇宙の進化と同じレール上で語られることが多くなりました。もちろんまだまだ自然選択説が改変されたわけではないのですが、それでも生物の進化が宇宙の進化の過程の中に包摂されても違和感がないように感じます。

世界はビッグバンより語り始められ、素粒子や原子の形成、星雲や星の誕生から、地球が出来るあたりまでは、一つの宇宙の進化という道筋で描かれます。

 原子や分子はその生成過程に、‘競争’という概念が出てくることはありません。化学的エネルギーによってその生成が説明されます。これらの恒久的と思われる物質も、歴史の産物であり、酸素や窒素であっても、かつては存在しない時代があり、いつの時期かに水素やヘリウムをもとに存在するようになりました。こうした物質の進化(変容)は、宇宙の進化と同質に語られます。

ビッグバンのエネルギーが無限に飛び散って無となってしまうことなく、構造をもった美しき宇宙が出来たことは神秘的に語られてもあまり異論はないようです。たしかに人間原理を説く方に耳を傾ければ、ありえない確率の選択肢をこの宇宙は経てきています。宇宙の進化が、物理・化学の性質に従い機械的に説明可能となればなるほど、その歩んだ道筋は奇跡的で、神秘的で、荘厳にも思われます。

そしてまた僅少な確率で、地球上では分子から、高分子が出来あがり、アミノ酸、核酸などが作られ、あるとき生物体が発生します。しかし生物が発生したあとは、宇宙にはまるで、原子や分子、巨視的には、恒星や銀河系などを形成してきた力がまったくなくなったかのように、生命進化と宇宙の進化は切り離されて語られるのが今まででありました。


生物は自然選択説で説明せよ、ということなのでしょう。しかし原子や分子、鉱物や星などが宇宙の動き(時間)によって‘自然’に出来たと考えるのに、なぜ生物体は‘自然選択’によってしか進化しないと考えるのでしょうか。選択がなくても進化するとは考えられないでしょうか。あるいは、他種と調和するように‘自然に’進化する(それもゲーム理論や包括適応度のような競争原理を一度隠蔽することなく)ことが考えられないでしょうか。

ダーウィニズム;自然選択説は、「生物進化などありえない」という文化風土に立てられたために、生物が進化してきたことを説明するためには、無理やりにでも進化するお話を理論的にこしらえなくてはいけなかったのです。ところが、東洋世界のように不変のものはありえない、あるいは現代のように、宇宙も常に変動しているという世界観においては、無理に進化(変化)の原理を打ち立てなくとも、宇宙には「発展」という原理がもともとあるのではないかという前提で生物進化を考えることが出きるのです。

 
なぜ熱は温度の高い物体から低い物体へしか移動しないのか、という問いから、クラウジウスは開放され、それこそが熱の本性であるとして受け入れてから熱力学の発展がありました。生物も宇宙も、時間という流れの中で変化することが法則である、という受け入れが必要なのだと思います。その中において、種が長い間変化しないのはなぜか、これこそが考えるべき思考順路かと思うのです。

といっても近代ヨーロッパにおいても、‘自然’が変容して世界が形成されたという考え方は広く流布された考え方であったともいえましょう。カント-ラプラス説のように、宇宙の初端が星雲のような状態であったということは、定常宇宙ではなく宇宙が発展してきたことを意味していますし、ラマルクの自然哲学も、ナイチンゲールの看護思想も、当時の自然思想はこうした動的自然観より出ていると思います。この運動の動因を、進化発展する力と、それに拮抗する求心力の二つの力より成り立っていると述べた哲学者にシェリング(1775-1854)がおります。

話を急がず、冒頭の話題に戻ります。

なぜ原子や分子の生成に‘競争’が不要なのでしょうか。こう問いを発すること自体が不自然ですよね。炭素原子が水素やヘリウムから生成されるとき、実は他の元素も出来ていたのだが、炭素原子のほうが競争に勝って今ある元素構成になっているという話。信じられないですよね。それは、原子に競争などありえないし、「勝って」という表現自体科学的ではありません。もし、こうしたことがありえたとしても、炭素原子が残ったのは化学エネルギーのもっとも安定した状態であるから、というほうが適当でしょう。

では、分子や、高分子、アミノ酸や核酸の生成となるとどうでしょう。これも分子の競争があったのでしょうか。宇宙空間にただようアセトアルデヒドは、なにか他の分子に勝って残っているのでしょうか。アデニンやチミンが、生物体の遺伝情報を蓄積するための候補物質の中で最適であったという言葉は後知恵すぎます。

しかしこれが細菌やプランクトンになると、もう他種との競争という考えが起こります。

自然選択という篩(ふるい)です。しかし‘選択’という概念は、これは意識的・哲学的に気付いている人は少ないのではないかと思うのですが、自然科学が展開してきた縦・横・高さ+相対時間(124時間というような)からは導出できない概念なのです。選択が可能なのは人間(人智)のみであり、こうした概念を自然界に移し入れて見ることができるのも人間あってこそなのです。同じく重力も、縦・横・高さ+相対時間からは導出できません。当時ニュートンのみが、三次元空間の点に、質という概念と万有引力を導入できたのです。というより自然をそのように見ると、物質世界において再現可能な仕事が可能だという「見方」を発見したのです。自然の中の数学的原理を哲学したのです。

動植物や「自然」に選択権があるように見ているのは、人間がそれを移しいれているに他なりません。もし、自然に選択する意識があるとして、自然を哲学・科学する道は可能です。それこそ自然哲学の目指す道でもあります。しかし一方でダーウィニズムは唯物論なのです。機械が機械論のまま選択する意識を持つようになることはどうやっても導くことができません。自然選択のみを方法としながら、唯物論的進化論は不可能です。

こうしてみると進化論を語る哲学が整備されていないのではないかということがいえると思います。

 しかし本当の進化のための哲学は、すでに前述のシェリングによって準備されていました。

「身を守るためにこうした形態とるようになった」「光合成量を最大にするためにこうした葉状をとるようになった」と、ある目的に向けて種を変化させてきたような選択を、自然に見る見方は、あたかも自然が人間にとってそう見えるという前提のもとにその過程を科学するか、もともと自然とはそういう目的をもったものであるとして見る見方の二通りの考え方が可能です。前者では、自然の法則は人間の考え出す法則ということになりますし、後者は、「自然の法則即精神の法則」ということで、どちらも結果は同じになるでしょうが、これはカントとシェリングの哲学の違いでもあります。

「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」などに共感を覚える日本人にとって、おそらくかみ砕いていった時、シェリング哲学のほうが飲みやすいのではないかと思いますので、少し進化ということに焦点をあててシェリングの自然哲学を考えて見たいと思います。

「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」とは西田幾多郎の魔法のような言葉ですが、自然を一個の「知」として(純粋)経験できる方は、きっと既存の進化論が完全に間違いではないにしろ、不十分な材料を用いているということに理解くださると思います。生命の進化は観念論哲学によって、全貌を顕すのです。

今西錦司さんの業績は、優れた自然観とその自然観に基づく進化思想であると思います。自律的進化ということが近年注目を浴びていますが、氏が考えておられたこの自律的な進化のイメージを学問化するためには、まだ少し哲学における準備が必要なのではないかと思います。


 
(2)に続く