ロビタと有機体


 ◆「ロビタ」とは手塚治虫さんの作品『火の鳥』に登場するロボットの名前です。手塚さんの作品には、どうしても人間としての優しさがにじみでていて、こうしたマンガを書き続けられたことに対してはなんとも言葉にならない感情で一杯なることがあります。『ジャングル大帝』やエッセイ『ガラスの地球を救え』を読み終わったときも、手塚治虫さん自身のメッセージに直接ふれるような思いがして、涙したこともあります。

 ロビタは『火の鳥;未来編』に、この作品群を通して重要な役割をもつ猿田博士の助手ロボットとして登場しています。博士の内心を気遣う、忠実でとても人間的な性格をもっているのですが、それというのも、ロビタは単なるロボットではないからです。その出生の秘密は巻を変えて『復活編』に描かれています(これから『復活編』を読みたい人はこのページは避けてください)


「神よロビタを救いたまえ」
このシーン(原画切り抜き)は「孤独なロボット」ではなく、
「生命の孤独」が描かれているようだ

博士の心を察するロビタ
『未来編』より

 『復活編』では、ロボットと人間との関係をテーマとした年代の異なる二つの物語りがそれぞれ、年号のあるページを区切りに独立して描かれています。ところが最後になって、冒頭から登場しているチヒロを軸に、行き違う別々の物語りとして捉えていたものが、同じ話だったという真相が翻然とわかり、その手法に驚いた人は多かったのでないかと思います。しかも、物語りはそのまま『未来編』に登場していたあのロビタと同一のストーリーとして連結していたことを知るのです。ロビタの人間的な性格は、レオナという青年の心に由来するものだったのです。

  
レオナ(左)と 融合されるロボット「チヒロ」 (右)はロビタを造ったウィークデー 

 物語りを詳細に述べずに話をすすめていくことは困難ですが、『火の鳥』を読んだことがある人は多いだろうと推測してこのロボットを題材にして有機体と進化論について考える材料を提供したいと思います。

 ロビタは、人間の心を電子頭脳にもつ一台のロボットですが、時代が400年以上もくだりその秘密を知る人はいなくなりました。機械らしくない愛嬌のあるロボットということで、ロビタは記憶中枢も含めて複製され、どんどん数が増えてゆきました。同じ記憶を持つロビタは、同じ思い出と、同じ歌と、同じ遊びをおぼえていました。こうして便利なロビタが一日に520人ほど量産されるようになった時代のあるとき、ある富豪の家のロビタが子供を事故死させたという疑いをかけられ有罪となり、その家のロビタ全員が溶解処分されることが決定されました。


複製されるロビタ

 そして刑が実行されて一部のロビタが溶かされた直後、全世界のロビタ数万人が集団で自殺するような事件が起きました。そして同時期に月にいた一台のロビタは自殺する環境がなく、しかし自分が人間であったという自我を取り戻したことを確認するために、主人を故意に殺すという、してはいけないと知られた行為をしてしまうのです。このロビタが最後のロビタであり、『未来編』で再登場するのですが、この物語りでは最初に処刑されるロビタがいうセリフが面白いのです。


「私たちは昔 たった一人のロビタから分かれて増えた兄弟です/ 私たちは全部が一人で 一人は全てです/ もし私たちの一人が死刑になれば/ ロビタは一人残らず死ぬでしょう」



「One for all, All for one」とは、ラグビー選手が一体となって全体と部分とが有機的に一つの目的のために動くときの合言葉だそうです。これは、カントによる有機体の説明
各部分は他の全ての部分のために、全体は各部分のために存在している」と共通した内容を持っています。共通の祖先をもつということが、その後の複製体の運命を共通の未来へと運ぶ要因になっているのです。

 

ロビタの集団自殺を予言する受刑者ロビタ



一部の死が全体の死を呼び起こす

月に残されたロビタは
自我を確認するために・・・

 ◆このマンガのロビタの行動は、もと一つのものが分岐した子孫が、同時期に同様の変化をしてゆくという今西進化論が与える概念の一つに対して何らかのイメージを与えるものと思います。今西錦司は、「個体はすなわち種であり、種はすなわち個体である」とも述べています。

 ロビタが集団で自殺した原因は、一つのロビタを分解してしらべてもわからないでしょう。その原因はもと一つのものから分かれてつくられているというその歴史にこそあるのです。一部のロビタが理不尽な溶解処分をうけたからといって、別のところで働いているロビタが刑を受けたわけではありません。ですから、今まで普通に働いていたロビタが急に死を思い立ち、それが全世界に同時期におこるということは、不可解であり神秘的でもあります。私たちはこうした例を知っています。
 他ならない私たちの身体(の全細胞)も、元は一つ(二つ)の細胞からできました。私たちは個体であるからこそ、身体の諸部分が恒常性をもって調整されていることを当然のように受け止めますが、もし私たちがある器官の細胞だとしたら、なぜ見知らぬ遠くの器官の細胞が出したホルモンに、自分が対応しなくてはならないかそのメカニズムはともかく、そうしたルールになっている根拠がわからないでしょう。「我々はここで流れてくる栄養分を摂取して分裂していればいいのに、なぜどこからか流れてくる化合物の命令を聞かなくてはならないのか!!」と。しかし、そうして貰わなければ、個体は生命を維持することができません。これはもともと身体が一つの細胞から分化した自己同一性を持ち、精神も自己同一性を普通は個体に考えているために、こうした考えは納得しやすいのですが、では、いざ個体上位のヒエラルキーであるたとえば、種が一様の行動や、同時期に身体の変化(進化)をおこすとしたら不思議に思ってしまうのです。
 もちろん、同種の個体間に機能するフェロモンなど、生物の世界において他個体の行動を制御するメカニズムはいろいろ科学的に知られています。しかしもし個体が究極的に個体のために生きるのであれば、本来生殖のために時間をとることなど無意味です。「自己の遺伝子を残すため」ということは個体のどこをとっても論理的に導けるものではないでしょう。しかし生命は性フェロモンなどを介して同種の異性間に魅かれ、生殖行動を個体維持活動の一部を割いて行います。人間も異性への愛、子供への愛によって連綿と生命をつないでゆきます。これは、種(全体)を考えなければ導ける結論ではないと思います。種を考えるということは、人間が種に主体性を持たせて観るということです。そうしたときに、生物の進化も種を単位に考えることができるのです。そのように生物を観るということは、分析という自然科学の方法論の一部のみに頼るのではなく、直観を科学の方法論のもう一つのものとして受け入れるというように、人間の精神が進化してゆかなくてはならないのです。たとえば現在であれば環境問題という「現時代を生きる個」を超越した視点をもたなければ乗り越えてゆけない状況が発生しています。理論は変われどカエルは変わらず、されど、生物をよりよく知るためには私たちの精神のほうが変化してゆかなくてはならないと思うのです。進化を総合的に理解するためには、人間の心の領域のほうこそ開拓が必要のように思います。


 進化論の主流、ダーウィニズムは、進化は自然選択によっておこるという理論でした。生物の変化がランダムであり、そのランダムな変化をした個体群のうち生存に適した個体(生き残った個体)の遺伝子が子孫に伝えられていく過程を進化と呼びました。しかしもしここで進化の方向性が、まったく自然選択にかかわりなく’そのようになるようになってゆく’のなら、進化に自然選択は必要ではなくなります。

 生殖、このネオ・ダーウィニズムの進化論の要である遺伝子を子孫に伝えることによらず、形質や行動が受け継がれてゆくことがあるのでしょうか。一つの例は、ニューサイエンスと陰口をたたかれていますが、「百匹目の猿」に象徴される行動記録でしょう。イギリスのある街のシジュウカラが牛乳瓶のフタを開けてミルクを盗み飲みするようになってから、この習性がイギリス全土、そしてオランダやスウェーデンのシジュウカラにも伝播したという話もあります(反論は考えられるが・・・、ロビタの話に似てます)。この説明をニューサイエンティスト達は、形態形成場という仮説を立てて説明しています。

 こうした生物の行動だけではなく、表現型(というかストレートに進化の問題とよんでよいが)においても、遺伝子の類似度を比較すると、異所の同種より、同所的な他種との間の方が近縁というケースが知られています(右図;特にオサムシ類は歩行して移動するため大きな川で生殖による遺伝子の交流が妨げられるとする)。
 高知と広島に棲息していた右2種の祖先種は共通であったのだから、一方で種の分岐が起きれば、同じような環境刺激をうけていた(この一文を入れたのは、時限爆弾のように変化が設定されたもののようには捉えて欲しくないため)もう一地方でも遅かれ早かれ分岐してもいいのではないか、ということも魅力ある考えと思います。

 もちろんこれでは理論的な支えが何もないので、構造生物学や形態形成場のような仮説を出してこなければならない。ですが、遺伝によらなくても子孫に伝わるケースは、とくに行動の面において知られるようになっています。これは正統派進化論に対しての大きな鉄槌になるはずだったのですが、相手陣営から「ミーム;文化的遺伝単位」として持ち上げられ、まったく誤魔化されているようです。
  

 

再出;当サイト7.今西進化論より

 一部のロビタの処刑によって、全世界に散らばった数万のロビタが同じ行動を起こしました。「元一つ」であるということから導ける今西著『生物の世界』にみられる思想は、こうした現象をなぞることができます。一見ばらばらに見える個が結びついて共動する原理はなんでしょうか。
 宇宙の生命Allを象徴し、かつ個々の生き物をも導き、あるいは裁きの法則ともなる「火の鳥」に聞いてみたいところです。

 
「進化は種社会の分化による生物全体社会の生長である。」(『自然学の提唱』)とは、今西錦司さんが進化に対して考えている概念をよくまとめてある言葉と思います。生物的自然という一大生物全体社会が、変転している雄大なイメージです。個と全体というテーマは、「個体差」のみを見ているだけでは、導き出されないものなのです。

 この章は、すこし機械論的にも自律的進化論的にも捉えられる説明となってしまいましたが、自然選択以外の進化のイメージを持ってもらえれば幸いです。

2004.1
(今西錦司の世界)

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