このサイトは、進化を、突然変異や自然選択という仮説を借りなくても、自然それ自体の法則として考えるために創りました。今西進化論は、生命や種の自己展開という自然の自律的進化をいち早く叙述しましたが、「種は変わるときがきたら変わる」という現象に終始し、その運動因については、種の主体性を持ちだしたことにとどまりました。進化は、生物のみの法則でなく、宇宙の摂理の一つです。生き物たちの進化が、決して偶然によっておこったのではないという確信に導かれて書いています。
ここでは、神が、神の一部であるかたちなき質量を、かたちあるものへと変化させようとした念いが、永遠に変化を導いているとする、シェリングの自然哲学を援用して、進化の運動因を考えました。
「物理学には、あらゆる現象を物の運動に帰着させる、そういう考えがあるわけで・・・」(『鏡の中の物理学』(朝永振一郎))、これは熱を分子運動によって理解するところまで演繹して成功しております(電磁気学では「場」というものを考えなければ、運動方向に対して垂直方向に働く力を導出できない)。こうしたプログラムによって(飛躍しますが)生物進化を解釈した結果、こういう態度はいずれ「世界を妖怪で満たす」といったシェリングの予言どおり、現在「偶然の変異」「自然選択」という二つの妖怪が、進化論という学問の座に居座っています。
もちろん「自然選択」、生物同士、生物-無生物の関係が生物を多様化させる一因であることに異論はありませんが、よりマクロな視点で進化をもたらすものをとりあげたいと思います。選択は、種の理念の相克によって現象界の個体同士で起こるでしょうが、しかし全体としてまた、同じ生命から別れたものとしての同一性を保っているため、自然界は進化しつつ、調和しているのです。
そして歴史は、人類の心のなかに展開しているため、人類の歴史に学問として究極がないように、生物の歴史もこれからの人類の知的足跡によって変化してゆきます。生物(人間以前の自然)に自己同一性がなければ、ヘーゲルが言うように自然に歴史なく、歴史は人智のなかにある。
かつての進化論に失望することはないと思います。すべてが進化しつつある宇宙のただなかで、進化の法則に気づいたということ、その人類の叡智は、永遠に変化しないものに気づいているからです。
@このサイトは、
*自然科学を否定するものではなく、自然科学の対象領域を開き、守り、制限するもの。
過去、自然哲学と科学が調和しているときに、科学は進歩しました。ただし自然哲学は、科学者の個性、天才性にマスクされていることが多かったのではないでしょうか。「哲学が理念を、経験が事実を与えるとき、うやく我々は大規模な自然学を与えられることができる。私はこれを後の時代に期待する。」---『ドイツ観念論最古の体系計画』シェリング-ヘーゲル
*人間の身体や身体より発する感覚から解き放たれ、真実の知を求める人に貢献したい。
シェリングは、フィヒテから出発した。フィヒテの哲学は、身体的意識から、理性によって高次な意識へと導き、神へと近づくことを説きます。「肉体を中心とした迷いを吹き消した状態(仏教的な阿羅漢)」の境地をかいま見ないければ、自然哲学の理解は難しいのではないか(フィヒテも、「人間の使命」の中で、自己の守護霊との対話を描いているように、観念論を説く哲学者は高次の意識を知っている)。
自ら感覚世界の急流に流されながら、同じく急流のなかの魚を観察していては、真実の姿を捉えることは困難と思います。
*人間精神(自我=自我)を前提にしており、人間の進化までは言及していない。
われわれの精神を前提として、生物の進化の運動因を探究することが目的で、もともと全ての科学もそうです。ですから動物の行動を前提に、人間はもともとこう生きるべきだ、ということは、比喩としては使えても、理論の立て方は逆なのです。
@自然とは
*私たちが、普段用いている自然は、人体の感覚器官(目や手触り)により、そこにあるものとして対象にできる物質、物理的特性(可視光線など)をさしますが、これを創られた自然(所産的自然)といいます。
動植物や、山や海の景観など、縦・横・高さという入れ物のなかのものが、地球の自転をもとに計られた相対的時間のなかで、力学的法則に基づいて運動している世界を、理性(カントの悟性)が構築した、機械論的な自然にあたります。
これは近代人類が獲得した、人類のこの世的進歩にとって大いに益した、一つの世界観のなかの自然です。西洋文化の一つともいいきれず、やはり普遍的なものをもっていると思います。
しかし、この自然観だけでは、捉えることのできない自然があります。創るほうの自然(能産的自然)です。この目に見えない自然の作用によって、目に見える自然が、成り立ち、変転しています。物質は、見えない自然の拮抗する二つの力が生む渦のようなものです。これに相当するものは現代科学ではエネルギーですが、意志を含んだエネルギーです。この自然が、可視的自然を創っているのです。二つの自然は、完全に異なるものではなく、もとは同一のものです。
「意志を含む」ということは、目的論を閉め出して構築された上記の世界観からでは出てきません。過去、生気論のような考えもありますが、何故科学として普遍性を持てないかをいずれ考えてゆきましょう。
とりあえず、ここでは創る自然と、創られた自然について書きました。創られた自然についての情報は、数百年の間で膨大な、人類の知的財産となっております。このサイトは、この知識を有用にしている人が、さらに深く自然を見つめていただきたいためにもあります。
@進化とは
*「自然とは」、と関連しています。静止した物体も、エネルギーの絶え間ない活動によって消失と生成を繰り返しています。宇宙も、最初は一つのエネルギーであり、一様の数種元素や素粒子から、銀河ができ、恒星ができ、惑星が生まれてきました。進化の本流は、宇宙の多様化の歴史であり、生物進化も大筋でこれと異なるわけではありません。進化もコスモロジーの一つと思います。
@今西進化論
今西錦司の自然観にあたる、「種」と「個体」の階層は、「創る自然」と「創られた自然」に対応されます。
もともと一つのものが分化してできた生命であるのだから、この世界の種は調和して共存しているという言明は、そのまま進化の要因を見出すには難しい考えですが、生物界をなんのイデオロギーなく見たときに観察される構造や役割分担(大雑把には生産者、消費者、分解者など)を理性的に説明しています。しかし、競争(ダーウィン)か調和(今西)か両極端になることなく、ここに競争原理を挿入することが可能ではないかと考えています。
また、今西の種の展開による自律的進化は、科学理論の形態をとっていないとはいえ、進化を正確に記述している(反論できない点は自然選択と同じ)。
構造主義的進化論も構想は近く、この理論構築に総合説に傾いている人々の頭脳が流れ込めば、進化論はもっと発展すると想像すると思います。
自律的な運動の原因を考えるのが、このサイトの目的です。
@ダーウィニズム及び総合説について
当時、種は変わらないという集合想念に覆われ続けた西洋社会に、種も変化するということを啓蒙したことがダーウィンの功績と思います。問題は進化理論にあります。
生存競争
進化に競争原理があることは、「今西錦司の世界」を書いていたころはあまり強調しなかったのですが、より適応した種がのこってきたことは事実です。ただし、二つの自然観を受け入れれば、種内の個体差の漸進的な淘汰によってのみ進化がおきたという必要はありません。
適者生存
適応したものが生き残り、生き残ったものが適応している。トートロジーですが、間違いではないと考える。
自然選択
ここが、複雑になっています。「人間とは自分に対して「私」といえる存在のことだ(高橋巌)」という言葉がありますが、この定義によると、自然産物に、時間軸上の前後でどちらが生存に適しているかを選択する主体はなく、人間にいたって可能なことです。もちろん、通常使われている自然選択は、こうした内容をさしてはいませんが、自然選択を、実験(すでに理論が含まれている)によって確認することは原理的に不可能であるし、今生きている種を自然選択の結果だということは確証できません。現在も衝突している銀河が知られていますが、今形をとどめている銀河を自然選択の結果ということと変わりありません。
ただし、この自然を能産的自然、自然の精神まで含めると、自然選択という言葉に意味を与えることができるかもしれない。生物が変わることは、自然選択の網、食物連鎖のフィルターも同時に変化することであり、
一部の変化は全体の変化となる有機的運動が進化なのです。
突然変異
漸進的に変化へのポテンシャルが蓄積されることはあるため(中立説の展開)、遺伝子に変化が起こることは結果としてあるでしょう。しかし偶然(ランダム、運)の産物であるということであるなら、この微細な積み重ねで進化が起こるという主張が科学ではないことを勇気を持って認めなくてはならない。唯物論的世界に進化をおこすには、確かに突然変異と自然選択の二つの道具は、必要であり、理論的な説明ですが、しかし、その世界観自体が真実のものではなく、不十分なものなのです。
進化論には高度で複雑な数学理論があり、真実に近づいているものも数多くあると思います。しかし「突然変異と自然選択」の域をでなければ、結局、進化とはいつまでたっても「たまたま、結果的に」を学術的に修飾された用語で繰り返す以外にないのです。
それは盲目の金魚が、水温が変化する因果関係を、水槽内に求めているようなものです。賢い金魚は、水温とエサであるプランクトンの量や位置に相関があることを発見し、プランクトンが水温上昇の原因と結論づけ得々としているかもしれません。太陽の存在を知らずに・・・。
進化論の内部にある、突然性、偶然論こそ学問の価値を下げている元凶と思います。一律平等に偶然論を押し付けるか、生物の主体性を種に応じて認め、変化因を与えてゆくか、今後、学問の流れに注目して行きたいと思います。
別記として・・
『常に仏陀と共に歩め』(大川隆法先生著)では、
「瞑想を通じて自分の内なる砂金の部分を発見した人は、他の人のなかにある金色に光っている部分が見えてくるという話をしましたが、さらに、心のなかの内なる目を凝らして、じっと見ていくと、実は動植物のなかにも金色の部分があることが見えてきます。動物にも心があり、植物にも心があることが、非常によく見えてくるのです。
鎌倉時代の僧侶に、名僧といわれた明恵という人がいますが、この人は霊能者だったようです。
・・・
深い瞑想に入ることによって、さまざまな世界をつながっていき、いろいろなものが見えてくるようになります。動物の心の動きや、さらに植物の考えや気持ちまで分かってきます。・・・」
とあり、実在界の動植物との交流する方法は、乱れた心を落ち着ける瞑想修法と教えていただいております。ただし、よき導師、教えなき瞑想は、危険です。