ノート3 自然哲学と生物学1

自然哲学の根本は,神の創られた自然の探求であり,そのうち,目に見える物質存在と,目には見えない自然の精神という二つの探求領域を提供することを使命としている.

 理性には訴えかけるが現実的な利便を生み出さない形而上学が華やかなりし時代には科学を,逆に,実証精神は優れているが,唯物的でこころの価値を見失った時代,目に見える自然の奥に隠された階層システムがアナーキーな機械論に堕した時代には,観念論を用意し,この世界に残されてゆく知的財産に方向性を与えてきた.

 アリストテレスの目的論を笑った機械論的科学の発展は,20世紀には一方の極に達し,再び人間原理という目的論を見いだしている.物質はもう,場やクォークという非物質的理論によって説明され,宇宙全体は進化論のような小さな偶然論を捨て,奇跡的な数値に守られた恩寵のゆりかごとなった.

再び,かつてのように,自然哲学が科学に方向性を指し示す時代がきている.
 ゲーテは,科学者ではなかったかもしれないが,探求したフィールドは,明らかにこれからの科学の解き明かす領域であった.生まれる時代が早すぎたといえば陳腐な表現になってしまうが,当時の科学がゲーテの自然を解き明かすほどまでには成長していなかったのだ.その後,ファラデー,マックスウェルからアインシュタインやボーア,シュレーディンガーのような物理学の巨大な山脈が一時期に現れ,この世界の技術的躍進を遂げたが,彼らはまた自然哲学を持っており,科学者でありつつ観念論も牽引していった.

 物質は,エネルギーが活動する場の特別な状態となり,明らかに科学は目に見えない自然の解明へと向かっている.物理学が担当した「もの」とは何かの答えが,美しい数式のなかに見いだされたのはいい.物質の精神が,人間精神のうちの数学的論理と同一であったということだ.まだ解かれていないのは生物学が担当すべき「生命」とは何かということだ.生命も,きっと生まれては死んでゆくこの自然(精神世界も含む)すべてが生命であり,個体を解剖して遺伝子を解読しても,わかるのは個体であって生命ではない.

コノハムシが,葉脈や食害痕まで擬態しているのは,いったい誰を喜ばしているのかといえば,もちろん人間である.自然はあきらかに間違いなく精神のかたちをしている.精神以外につくり手がない.銀河系は大生命であり,ミジンコは小さな精神のかたちだ.
 バラの花びらのベルベットは高貴な精神にしか創れない.なぜツユクサは青いの?って聞かれれば,アントシアニン,全く答えになっていない.しかし,本当にわからない質問であったならば,人間は問いかけることすら出来ないであろう.

芸術家は作品の前にたてば,作者の精神に触れることが出来る.植物は如何?動物は?人間が精神を解放すれば,かならずそこに触れることの出来る魂がある.マテリア(物質)の眼が見ることの出来るものはマテリアだけであり,精神だけが精神を知る.人間精神が,物質としての脳のパルスとしての産物だというのは,本末転倒の錯覚であって,精神なくして物質なし.今を今と知る精神が自然を生み出すのだ.今を今と知る精神は,人間精神である.そこに初めて時間--歴史を知る主体がある.自然には時間がない.今を今と知ることのない精神は,永劫回帰の現象であって順序はあるが,過去,現在,未来を知らず,したがって時間を持たない.生物自体に時間がなくて,いったいどこに自然選択,適応なるものが考えられるか.適応とは時間の前後を見る精神があって始めて意味を持つ概念だ。人為選択はあるでしょう、生物の精神によるけなげな競争もあるでしょう。しかし無機的自然に選択なし.適応度なし.そうあるようにはめ込むなら、それは人間の勝手な押しつけである.勝手な押しつけなら,天動説や熱素理論でも繰り返したことである.進化論が,全く目的論を除いて,純粋に科学として成功したと思っているのなら,大きな誤りだ.進化論は,自然の本当の姿を無視して,人間の主観で非目的論を当てはめていた非科学である.

精神としての人間が,まず直接知ることの出来る全内容は,自然の精神という知である.反省によってその一部に人間身体を含む物質的自然があるにすぎない.
 その物質的自然探求は大いなる恵みをもたらした.この科学と手を取り合って,まだ自然には無限の宝庫が眠っている.さぁ,勇気を出して自然の精神に,科学的探求の眼を向けよう.いや,それをもう済ませたのが,電磁気理論であり,量子論であったのではないか.生物の精神,生物の歴史.これからこの探求の時代が始まる.生物の歴史,進化はどこにあるのか.私たちの心の中なのだ.歴史とは,信じられないかもしれないが,心の中にしかない.昨日歩いた場所に戻っても,残念ながらそこにあるのは今日であり,そこにある昨日の足跡は,今日のくぼみなのだ.昨日のことを思い出しても,それは今の出来事である.空間と時間とを勘違いしたような進化論はもういらない.生命は唯物論哲学のもとでは決してわからないことになっている.そこでわかるのは,何百年たってもロボットとしての身体であって,生命ではない.生物は,身体のみではない.

人類はまだ生命を表現する媒介は,詩のような言葉しか持たないだろう.しかしシェリングの言うように,自然が能産的自然と所産的自然の振動であって,その一形態を,電磁誘導としてエネルギー化しているのならば,生物現象も,あるいはシェルドレイクがいう形態形成場の振動をエネルギー化することが可能な時がくるかもしれない.生命が,科学出来る時代,しかしそうなっても,人間精神を潤すことができるのは,自然そのものの姿と詩であるだろう。

フィヒテもシェリングも、それが人間を離れて存在するかどうかは争ったが、いずれも植物の霊や動物の霊を認めていた。今後自然哲学、科学は、技術の進歩と共に、自然霊を探究することになる。
 世界霊が世界を創出し、自然霊が自然を、植物霊が植物を、動物霊が動物を。それぞれ、創り出している。DNAも、創るものだけではなく創られたものでもあるのだ。神、自然霊(能産的自然、エネルギー)、所産的自然。科学にはまだまだ夢がある。

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