自然哲学の庵、中間報告

 自然を哲学するプラッツに立つ前提になるのは、やはり自然を創られた神への信仰であるといわざるをえません。

 環境問題に直面した人類へ新たな価値観の提出として、先見の明あった様々な研究者が努力した結果、今後シェリングの知名度は高まってゆくことは間違いはないと思います。

 
 その自然哲学が、自己組織化や自律的進化のモデルとして、なんらかの示唆を与えてゆくことと思います。しかし、そのモデルで表現するものが、単に時空間を流転する二つのエネルギーがエントロピー則のままにうごめき、「自然」に価値や造形を創出するものであるのであるならば、そしてそれらの相克の営みの結果、人間や精神を生み出すまでになったような「もののけ」的な世界観を提出するとするならば、シェリングの本意からは離れたものです。その思想は原理をみておらず、帰納的に見えます。結果、そのように説明されることはあるでしょう。

 しかし、全ての前提に、絶対者、根本仏、根本神の念いがあったことを忘れてはなりません。絶対者なくして、存在も運動もないのです。
 

 このサイト開設のきっかけである生物の進化論への関心の中に、先方にはお節介ながら創造論者に対する応援もありました。
 創造論者も神を信じています。そして万物が神より創られたことを信じています。この信仰と生物の進化を認めることと矛盾はしていないのですが、旧約聖書に忠誠を誓うとこの整合性が難しいのです。神が万能であるならば進化せず永遠に停滞する生物を創造するよりも、生物種にも進化し発展する喜びをお与えになると思います。

 そこで神を信じつつ、進化も容認できる道として、まずシェリングやヘーゲルらが弁神論哲学による神話を構想した「ドイツ観念論哲学」を媒介にし、創造論者へ呈示してみました。弁証法という自然の運動法則が、絶対者から流れ出たものであり、神と進化法則は矛盾しないことは書いてきたつもりです。

 信仰者から観ると自然は、能産的で進化し発展する一面と、所産的で質をもつ求心的な一面との両面から成り立っています。自然は、無限に広がるエネルギーと、結びつけあうエネルギーにより運動し、重力を生み、電磁波を生み、水素を生み、ヘリウムを生み、星雲を生み、恒星を生み、鉄を生み、惑星を生み・・。
 変転流転、仏の創られた自然の中には、自然法則といえど、変わらないものは何もないのです。その中で、生物も生まれ、変化してゆきます。

 この世界は変化が前提で、それにもかかわらずなぜ変わりにくい種があるのかという問いかけはいかがでしょうか。

 ダーウィンは、「種は変わらない」という間違った世界観の中で、唯物論的な間違った材料を用いて、真実を述べようとしたから、進化の理論を見誤ったのです。

 生物の相互作用としての競争はありますが、それは進化の大要因ではありません。

 進化は、大宇宙全ての法則の一つであって、その法則があるから生物は進化します。その中でより合目的的な姿へと多様な種が共存し進化するために、競争(自然選択)とみえる現象があるのであってその逆ではありません。生物身体はDNAも含め結果であり、現象のみを見るのではなく運動の要因を目に見えないものの中に探すことが、自然哲学の使命であります。その法則を人類の幸福化のために具現化することがこれからの科学の使命です。

 「今西錦司の世界」で種社会の奥にある実在界の種を探究し、「自然哲学の庵」ではマクロな自然の運動論を扱いました。もう一度、生物の世界に戻って、霊的進化論の正統性、既存の進化論との整合性を考えてみたいと思っています。ありがとうございました。  2001.11.10

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