井坂 枕(いざか まくら)        
 


 私たちは生まれたとき、自分と世界の区別はないままの状態にあったでしょう。成長とともにこの世界が自由な世界でないことを感じてゆきますが、それでも、何かに向けて話しかけたり、倒れた花をたすけたり、迷子の犬を悲しんだりして、自然と一緒に、自然と共感する心を持っています。共感はしつつ、自己と他の差別が不十分で、客観として自然を理解したとは言えない段階にあります。

 しかし、兄弟で親の関心の差などに嫉妬の思いを感じるのは自分の内面の感情であり、好きな人ができて胸がうずくのも自分であり、さまざまな周りの環境から五官を通して来る刺激によって自分を意識するようになります。このとき、もし他人の気持ちが自分と同じようにわかるならば、自我の形成はないのでしょうが、自然や他人と共感できる微弱で優しい気持ちはだんだん忘れ去られ、自我の欲求を満足させる思いと行動を選択してゆきます。

 さらに自分はよかれと思って人に尽くした行動も、他人に厳しくとがめられることもあることを知ります。自分の感情が、すべてではないことを知り、社会性、常識というものを身につけてゆきます。

 そして、私たちは、自分をはなれて、自然や世界の存在を当然のように受け入れてゆくことになります。また今の日本で生まれ育った人であれば、この世界が、科学法則のもとに動いていることを知ることができます。天体の運行から、自動車やコンピューターなどの機械、化学製品、遺伝子の組み替えなど、すべて科学の法則に従って成り立っていることを学びます。そして、それは実際多くの人が受け入れることのできる事実であり、その恩恵をうけて私たちは生かされています。自然の客観としての姿を、知識、情報として学ぶことができるのです。
 
 では、こうして客観世界を理解している自分とは、そしてその自分の前に広がっている自然と自分との関係とはどう考えていけば良いのでしょうか。自然環境とは、人間とは関係のない痛みの無い物質世界と考えて破壊も廃棄も無制限に行われてきましたが、ようやく自然環境とは、私たちも生かされている世界であることがわかってきました。生物濃縮など人間に因果が戻ってくる循環している世界であり、私たちも肉体という自然を抱えた存在であったことがわかってきただけでなく、ようやく自然にも、痛みを感じる心があるのではないかという考えとしての伏流水が、流れ始めています。
 この時代に生きる成人として、自然をどのように受け取るかを、考える時代に来ているように思います。



 さて、イントロにあたり私事を書きます。
 科学の素晴らしさといったら、私は子供の時からひかれていましたし、新しいことを知るたび興奮してその優越感に満足していました。3塩基を組にする遺伝子の配列によって、蛋白質が決定されていることを知ったときは、感動して教科書を手に親に(なぜこうした素晴らしいことを知らずにいるんだろうとおせっかいにも熱心に)説明したこともあります。
 
 しかし、なんとなく納得できなかったことがありました。それはダーウィンの進化論であり、心理的に受け入れることができなかったことは、遺伝子によって人間の行動や思考が制御されているような考え方でした。社会生物学のように、動物の行動を遺伝子によって説明し、それを人間にあてはめようとする本を読むと、知的には高度に組み立てられているように感じるのですが、どうしても反発心がおきてきたのです。純粋な科学ではなく思想の一つと思いました。

 ある時、私はおそらく自然と共感する?という体験を得ました。大学の中をひとりで散歩している時でしたが、突然なにか感情がこみ上げてきて、それが自然という漠然としたものから来るように感じたのです。当時、環境科学(修士課程)を専攻していた私は、どちらかといえば環境を破壊する人間を許せないという気持ちが強く、経済的利益を優先して、野原や林を切り開いてきた人類に対しても原罪意識を持っていました。しかし、その時、私を訪れた意識は、とても優しいものでした。あ、これは子供の時いつも感じていた思いだなぁと思ったとき、「やっと気づいてくれましたね。」というすべてを許すような心にふれました。

 私はその時、自然が語りかけてくれたんだと思いました。自分の中にずっと忘れてきた感情を思い出すと同時に、その時を、自然もずっと待っていたように思いました。いやその待ちわびていた気持ちといったら、子供の時からというよりも、たとえば産業革命以来のようなあるいはもっと長い時間を経ているように感じました。
 その間の人類による急速な自然破壊を恨むでなく、人間に理解されずずっとひとりぼっちだった自然が、ただ再会を喜んでくれたように思えたのです。一瞬のことであったのですが、私はそこでしゃがみ泣いてしまいました。理解されず日々破壊されていながら、しかし再び心を通わす時がくることをひたすら待ち、人間の善性を信じてくれていたような意識が自然の中にもあるような気がしたのです。
 見れば池には、蓮の花が咲き、小さな水色のイトトンボが飛んでいます。その目にとびこんでくる水色はなんて美しいのでしょうか。あらためて、この世界の美しさを感じました。

 それから、心がけのいいときは、手のひらに野生のスズメが乗って来てくれたこともあります。唇を突き出すと、答えてつついてきます。どんなに愉快なことであったでしょうか。また倒れた樹の思いと通じたような時もあります。特に、動植物と心を通わすということは、人間の心の段階としては別に高いものではありませんが・・・。
 
 それと・・・これを書くには勇気もいりますが、子供のころ家の隣を流れる川の上空に、大きな竜を見たことがあります。うろこの一枚一枚もはっきり見え、家に逃げ帰り母親にしがみついて「竜がいる。竜がいる。」と泣いていたことを覚えています。竜は自然霊の一種です。宮沢賢治さんの「竜と詩人」や、最近は「千と千尋の神隠し」でも川の名前をもつ[自然霊−人霊]として竜が登場しておりますが、実際の役割もこれらの作品で紹介されているとおりのものと思います。環境保全の仕事をするよう期待されていたように思います。

 このホームページの作成の動機も、これらの普通は見えない精神を、伝えたいという思いに発しています。そうでなければ、自分でもこうしたHPを創っている理由がわかりません。あの時、心を通わせてきたあの優しい気持ちに、応えようという私なりの誠意かもしれません。そして、私が胸をときめかした科学に対しても、新しい方途を捧げることができるのではないかという予感、あるいはこのあとに続くものが、ほんとうの有機農業であったり、ほんとうの進化論であったりするのかもしれません。

 私たちは、何か時空という一様の世界のなかに物質が蠢いている、そんな倒錯した世界にすんでいる様に錯覚しているのかもしれません。真実の世界への導きとしては、はなはだ拙いものではありますが、何か真実と優しさを伝えられればとおもいます。正しいということは優しいことというサマセット・モームの言葉を添えて。                    

 今回も、数多くこのサイト立ち上げまでに、ご協力いただいた数多くの方々に、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

                2001.8

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