井筒俊彦 東洋哲学覚書 「意識の形而上学」 大乗起信論の哲学 を読んで

 大乗起信論を読むことが,直接進化論を解くカギとは思えませんが、しかし自然哲学や,世界の把握形式が洋の東西で共通性のあることの理解を深めるとともに,自然と心の関わりを仏教の用語で考える機会となりました.「意識の形而上学」を読みながら,ふとシェリングの解説書を読んでいるような錯覚になったことが,この一頁を作成するきっかけとなりました.


 「真如」---存在論的には,無限宇宙、分割できない絶対の無、非顕現であり、道教の「タオ」、プロティノスの「一者」に通じます.それはそのままシェリングの絶対者に相当します.さらに一切の有である現象的顕現をも含み,「無」と「有」の双方性をもちつつ、しかして一なるもの,あるがままの全体を指します.後述しますが,個々人と関係づければ、こうした真如という如来の仏性は、全ての人が持っていることになります。しかし、一方真如と無明は対立します。現象態(経験可能な世界;−)と非現象態(形而上界;+)の二つが真如において同時成立している。この矛盾を同時に理解できる人が、悟達の人と言われます。シェリング哲学においても,絶対者と絶対者の像である創造物は,対立するものとしても考えられています.

 「アラヤ識」---真如の非現象態と、現象態との間にある意識領域。「無」から、百花繚乱全てを含む三次元的現象態までに展開し、真如から来たりて、真如へと去る如来の活動の通過域。真如から見てマイナスであると同時に、個々からみれば真如の展開の相(プラス)であり、自己矛盾的である。アラヤ識の未分裂境位を真妄和合識ともいう。
 真如たる絶対者、隠れた神は顕われた神にならずにはいられず,無名→有名の次元転換、相転移がおこります.

 以上のことは,存在論的な見方です.存在論的というのは,自己を放擲しすべてを客観視する立場であって,シェリング自然哲学の立場なのです.もともと科学本来の立場でもあり,「この実験が上手くいけば・・」などという雑念も,主観としてとじこめず,自己の心身共に客観的世界に投げ出した自己の立場.私たちが考えるような精神的内容は,ふつう主観として他人に知られないものと考えられていますが,実は四次元以降の公的世界に日々創造をしていることとなっています.常に怒りの想念を発している人は,公の世界を汚しつつ生き,心平静な想念は共に生きる人々の世界に調和をもたらしている.こうしたすべての人にさらされている精神的生産物を勝手に主観と思いこむことなく,客観視するような超絶した視点が,存在論的観点です.

 しかしこの精一杯「我」を捨てて見える客観世界が,じつはその人の主観世界となっています.意識論的立場は,無我となり世界を眺めていた視点を,くるりと心に転回した立場であって,唯心論的・フィヒテの立場でもあるのです.この書き順は,ちょうどフィヒテ→シェリングの逆をやっているのです.しかし大乗起信論は,意識論的でありながら,フィヒテのように自我によって客観を滅却させようとするのでなく,意識論的立場と存在論的立場が同一であるとする,シェリング同一哲学に近いものと思われます.

 唯心論の同義反復ですが,真如は,意識論的に見ると「心」です.真如のうち「無」である真如の極点,絶対者は,意識論的には心の中の絶対無分別の「一心」,仏性,仏心です.各個人の仏性は根本仏に通じていると言い換えることもできるでしょう.真如のうち,様々な個を含む「有」に対応する心の領域は,「心生滅」とよばれ,沸きいでては消え去る心の様相です.

 続く? 

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