ヘーゲル(1770-1831)の自然哲学1

 
 ヘーゲル哲学における根本思想の一つは「弁証法」でしょう。本によっていろいろ解釈されているので、「こういうものかな」と理解すると、別の解説本ではその考え方が批判されていたりします。この批判の経歴が弁証法?とも思ってしまいますが、そうゆうものではないでしょうね。

 あるものが存在するとすると、それが存在することによって、その存在に対立する対象が必然的にあらわれてきます。そうして、ある存在は、自己とその対象との関係にまとわられ、解決の運動をはじめます。例えばいままで奥さんとして振舞っていた女性も、自分の子供を生むことによって母親となり、母親としての学びをはじめるのでしょう。また、ある疎ましい部下を、単に見放したら問題は解決せずおしまいですが、この部下が疎ましく思える原因は自己の存在にある(その部下のお子さんにとっては素晴らしいお父さんかも知れませんもの)と覚悟を決め、立派な人格へと導く責任をとろうとしたとき、世界はあなたにとって前進しているのです。

 (どこかにも書きましたが)宇多田ヒカルのFinal distanceはいいですね。プロモーションビデオも良かったのですが、この曲は音楽史上名を残す芸術と思います。ところでこの歌詞ですが、二人の間にある「距離」が主題です。壁となっている距離を、取り外して抱きしめ合おう、というありふれた詩ではないところが面白いと思います。二人の間にある時空間を見つめて、その「距離」をもそのうちに抱きしめられるようになれるよ、という歌詞になっています。二人を否定するかに見える距離を、たんに除外するのでなく、距離をも愛することによって否定しているところが素敵です。解り合えなかった恋人同士も、二人の距離を距離として認めているうちは、取り外せば成功、失敗すればお別れですが、二人の距離をも愛することによって失した恋愛も永遠です。これは恋愛の話かも知れませんが、この作品は悲惨な事件で亡くなった少女(ファンであった)にも捧げられ、こうしたもう地上の距離では離れてしまった愛すべき人へも届いていて、気高い精神が見てとれます。

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ヘーゲル哲学が難しいと思われる方は、次の言葉を味わってみてください。
「悩みの種は自分を育てる種でもある」
「自己探求の旅、自己発見の旅は、誰もが逃れることのできないものです。」
「自己認識の変容、拡大、発展こそが、実は魂の成長なのです。」
「自己認識の変容こそが、実は悟りの正体である」 以上『幸福の法』幸福の科学出版より
----2004年1月加筆

 こうして観方をかえる努力によって、世界が変化してゆく方法をヘーゲルは説きました。地球が出来て以来だって、大量の隕石や宇宙線は注いできたとはいえ、ほぼ地球を構成する元素は変化せずにきたのでしょうが、太古の無生物の世界から今見るような大自然、大文明が出来ているということは、何か思考する主体が存在することを予感しています。

 ヘーゲルはこの弁証法という手近な方法、身近な運動法則によって、宇宙開闢以前の計画から、宇宙・大自然の生成、人間精神の歴史をすべて描ききってしまいます。ヘーゲルの体系の中に、形而上;形而下世界の全てが位置づけられているのです。シェリングやヘーゲルの青年期の立志には、教会の神概念が失落しつつある時期に哲学的思考によって捉える神の創世記を書かねばならない、というものがありました。しかしカント、フィヒテ、シェリングは、(クザーヌスの昔からある考えでもあるのですが)思考によって捉えられた神は、神そのものではなく、すでに「考えられた神」であるという立場をとっています。そして知の限界の後、最後に神と結び合うために信仰や芸術が立ちあらわれて来て、これが彼らの哲学の主たる関心であったのですが、陳腐な解釈によっては、神は理解できないから考えなくてもいいような無神論が起こってもいたのです。ヘーゲルは哲学によって神、すくなくとも神自身の知へ到達できることを説いたのだと思います。こうしたヘーゲルの神は不動の神ではなく発展する神です。

 哲学体系は大きく「論理学」「自然哲学」「精神哲学」となります。「論理学」は時空間創造以前の神の世界計画体系であるとすれば、「自然哲学」は人間精神に至る以前の三次元が複雑化する過程の体系であり、カント哲学では物自体して五里霧中であった世界の学問化にあたるでしょう。「精神哲学」の最初に精神現象学として、有名なヘーゲル自身の著作『精神現象学』の一部が組み込まれていますが、これは人間精神の鏡に映った、先行する体系を人間から見た風景です(人間の素朴な精神からはじめて絶対知にいたる過程は『精神現象学』ですでに説かれているのですが、ヘーゲルはさらに、大宇宙全ての始めと終わりを哲学体系として説こうとするのです)。そしてその鏡像、「あるからあるのだ」というとらわれより自由になった精神が後続し、ふたたびカントの物自体へと踏み込んでゆきます。個人の精神をはなれ、人類を司る法へと精神が登り詰め、アルファでありオメガである最善の神へと至る道が描かれています。この体系構想は、『エンチュクロペディー』という著作にまとめられています。

 ものごとの始めは「」です。たんに有る、ということがなにもかものはじまりです。しかし、誰にとってでもない単なる「有る」ということは、「」に等しい。この「有」と「無」という矛盾によって、両者は消滅するのではなく、互いが互いを否定しあって全体は「」になります。こうして、だんだん「一なる有」が無時間無空間的に複雑化してゆく純粋思考が、論理学の内容です。

 そして「論理学」は下図の弁証法を経て、(左下の)「有」という一からはじまり観念世界を豊かなものにしてゆき、その姿を自然の中にあらわします。よくあるようなトライアングルを用いてみたが、もっといい表現があると思う。
 
 

図中の用語はスペース上正確ではありません。

 論理学が、S2=x2+y2+z2+(ict)2の虚時間(普通の時間)&空間のなかにその姿を映し出したものが自然哲学の対象となる自然自体です。論理学のなかでは、机も星もネムノキも相互につながったものですが、自然の中ではこれらは今見るような別個のものとなります。

 シェリングの自然哲学では論理は自然が生成されてゆくと同時(この「同時」にしても普通用いる時間ではないが)に発展していました。しかしシェリング自然哲学が「知」としてその発展を終了するときに、「孤掌鳴りがたし」、何故か人間精神がそこに待っていることが必要であり、そのことをシェリングの哲学体系では連続的・論理的に導くことが出来ないでいたのです。
 ヘーゲルの体系では論理学によって自然や人間の理念は、自然哲学以前に導かれています。シェリングの哲学は人間知を前提とする科学者の態度であり、ヘーゲルのそれは宗教家の立場であったのではないかと思います。
 
 さて、いったん自然となった観念(論理学で発展した)は、自然哲学の中で単純な時間や空間からはじまり人間精神へと至るまでの進展をはじめます。ここでシェリングが見ていた自然の合目的性、論理性は、ヘーゲルによって剥奪されたのではないでしょう。あいかわらず自然の背後には、理念があるのですから。理念は時間を超越して自然を導いているのです。(続く)
 

図中の用語はスペース上正確ではありません。

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