エマソン(Ralph Waldo Emerson, 1803-82)

 エマソンは「より善き牧師」となるため、形式的なピューリタン精神を脱ぎ捨て、新しいアメリカの精神を創った。
 「コンコードの哲人」といわれるが(コンコードは地名;マサチューセッツ州)、彼はまとまった哲学体系をのこさず、合理的理論を説かなかったため、思想家(超絶主義)、または文学者として分類される。若い頃はピューリタン的に、自己の罪を深く見つめた日記も書いていたが、後に教条的な教説を守ることよりも自己の内にある道徳(=神)を信頼し、(悪を見ない)光明思想を説いた。また自身は本来の詩人として生きた。
 プラトン、ベーコン、カント、スウェーデンボルグ、東洋哲学などから影響を受け、また同時代のヨーロッパの思想家、カーライル、スチュアート・ミルなどとも親交があった。
 ちなみに詩人宮沢賢治もエマソンを中学生の時に読み共感しており、賢治の考える詩人像とエマソンのそれとは共通している。

 

 『自然』
 「あの植物園の中に立つとき、どんな奇怪な、どんな野蛮な、あるいはどんなに美しいかたちをした自然物も、それを見る人間の内部の表現にほかならない、という妙な確信を覚えるのです」「自然の全体が人間の精神の隠喩であり、比喩的表現なのです」と「博物学の効用」でエマソンが述べるとき、このサイトの主張を簡潔に示してくれている。

 このように自然を人間精神の隠喩として見るためには、個人という小宇宙が、宇宙の大霊と合一する「透明な眼球」とならなくてはならない。理性=精神=宇宙(自然)=信仰=普遍的存在者が一体であり、主観と客観の障壁を超越した状態、天来の詩人の境地である。この境地はあくまでも「自然の中にあるのではなく、人間の中に、あるいは自然と人間の調和の中にある」、人間精神のものなのだ。

 『自然』(Nature, 1836年の著作)の「4:言語」の章にも「自然のすべての事実は、ある精神的な事実の象徴である。自然のあらゆる外貌は、精神のある状態に対応している。」「物理学の公理は、倫理学の法則を翻訳している。」「精神と物質のこの関係は、詩人が空想したものではなく、神の意志のうちにある。」という言葉によって、この対応関係を表現している。ここでも、「自然はその王国のすべてを人間に提供し、人間がそれを材料として、有用なものに造り上げるようにする」ものとして、人間精神の優位が語られている。
 自然を愛し、自然に学びつつも、その自然を認識し、愛してゆく主体は人間精神であるとするバランス感覚こそ、環境問題を反省した私たちの健全な視点ではないかと思います。

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