カントの目的論
 

 ントは目の前に広がる自然法則によって運行が必然化している物質世界を学問の領域として抽出しました。この世界は、人間によって加工された現象として受容されるままの世界です。そして、自然界をそのように見ることを可能にするより高次の精神世界を示しました。その精神は永遠の生命を持ち、神へと向かうものです。このことは知性によって認識はできませんが確信することが可能であり、倫理的に生きる全ての人間が希求することです。人間の精神はこうした本来自由な世界の住人ですが、肉体をまとって現象世界を見たときにその世界をどのように見ることが可能であるか、という問いが残されていました。
 それが
判断力批判です。

 物事が物理法則によって必然的に解釈するということは、人間の魂に根元的な「何故!」という問いには解答を与えてくれません。ただ「いかにして」という冷厳な成り立ちを照らすのみです。何故ジャンヌ・ダルクは殺されてしまったのか。彼女が聖女であることを兵士達は知りつつ、何故死によって人々は愛を知るのだろう。物理学が答えるのは、炎の温度と有機物が二酸化炭素と水になる過程のみです。
 この冷たい科学の世界に、暖かいまなざしを送るのは人間の使命です。機械的にふるまう自然に目的を与えるのは人間にゆるされた責務です。というよりも、全ての中から、機械的に運行する部分を取り出して見せたのが自然科学であったというだけで、大自然はもともと合目的的であるのです。
 そのうち、
自然の中に「美」を見る自由と、合目的性な「知」を見る自由があります。
 自然に美や崇高さを見ることは可能ですが、その見方には熟練度において見方が異なり、客観性を示すことが難しいものです。
 しかし、カマキリの前足、モズのクチバシに合目的性を見ることは、その「知」「概念」を学問化(普遍なものを体系化)することにより客観的に共有できます。

 然を合目的的にみる客観的な合目的性は、しかしさらに2種類に分類されそうです。これも厳格な線引きは難しいのですが極端にいえば、クジラのヒゲは人間が細工品を作るのに適しているという目的論と、クジラがオキアミを海水から漉すことに適しているという目的論には違いがあるでしょう。。
 前者は
外的合目的性と呼ばれ、たまたま他のものによって有用であり、後者は種にとっての内的目的論になります。しかしある種の出すフェロモンが、他の昆虫に利用されている例もあり、合目的的に解釈する対象を、個体、種、生態系などに様々に見出すと統一的な解釈はもっと複雑になります。
 しかし、この二つの合目的的視点は弁証論的に体系化することができます。偶然にある生物のとった行動や形態が合目的に見えたことも、より知識が増えその行動や形態の意義が、より高次なレベルで解消できれば内的合目的性を与えられることになります。それが客観性を持った「概念」であるでしょう。

 物理法則による必然は、人間精神には偶然です。世界がこうあります、と叙述するときの精神は、こうだからこうなのだといっているだけに過ぎない幼稚な精神です。こうした精神にとって偶然に見えることも、少しずつ知識を増やし概念を成熟させることによって、全く偶然であったことがある個体に帰する目的性が見え、個体を超える種の目的性や、そこに棲む生物間の合目的性であり、また人間も関与する合目的性であったことが見えてくるはずです。

 うした合目的的見方が「人間にとってそう見えるのです」という枠から、自然にもとよりある精神性が生み出したものとするのみならず、一なる絶対者から合目的的に導き出し学問(科学)の対象にしようとしたのがシェリングといってもよいでしょう。

 ほの暗い現象界の宇宙に「光あれ」とニュートンがともした光は、カントの物自体という影を生みます。その認識不能な世界に光を掲げたのは後に続くドイツ観念論哲学者であり、自然自体を科学の明るみに客観化させようとしたのがそのうちのシェリングの自然哲学でありました。こうして現象界に既にあらわれている物質を原理とするのではなく、それを生み出している力(場)を原理としての哲学が始まりました。こうした方々の知的活動の源泉には、飛翔する自由な精神が神へと向かっていることへの確信があったことでしょう。
 

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