3. 種と個体---主体性と帰属性 

  

 前章で、今西の種概念について述べました。リンネは、種という神によって定められた強固な不変の概念でもって種を捉えました。ラマルクにとっては、生物学的に具体的にとらえたものは個体であって、個体は時系列上で変化していくものと映りました。確かに私たちに所与されるところのもの、感覚器官にうつるものは、生物一匹一匹の個体であり、細胞です。さらにダーウィンは、個体の変化により種も変化してゆくものであるとしました。全てのものは変化のなかにあることが判明されたのですが、その結果、種という概念はくずれることになったといえます。いまでも、種は想像上の産物、思考上の空理と考えている人も多いようです。

 ゲーテは、植物に共通の「植物の原現象」「原植物」なるものを見ました。経験したといってもいい。それをシラーに伝えると、シラーは、それを考えられた理念だと答え、話がかみ合わなかったといいます。おそらく、二人のつかんだ内容は一つのものであったと思うのですが、植物の原型は、ゲーテにとっては実在であり、シラーにとっては理念であったのです。この理念は、しかしギリシャの哲人が求めていた、感覚を去ったもっとも客観的な世界のものであり、やはり哲学者にとっては誰がなんと言おうと実在なのです。単なる空想でなく、ましてや現代考えられるような脳の情報回路の刺激でもない。ゲーテは、植物の理念にふれたのです。

 同じく、今西錦司も種を経験したのでしょう。それぞれの種を成り立たせている種の社会を看取しました。ここから、はじめてその種の個体というものが考えられるのです。この種の実在は、研究者より詩人の心で観なければならないものかもしれません。種は、個体主義の小さい穴から見てもわからないし、その視点からでは、今西進化論も、たとえば「運のいいものが生き残る」などの末節につまずいて何が書いてあるかさっぱりわからないと思われます。この種の実在を心に留めて、読む必要があるのです。「「種社会」の理論が、あくまでも私の理論体系の基礎になっているわけです。」「私の理論を研究するには、まずこの「種社会」という概念をはっきりつかんでほしいといっているんです。」とは、よく講演で繰り返されていました。この実在する種が、具体化して種社会として現れています。


主体性

 さて主体性について考えてみたいと思います。ふつう、主体性をもつものとして人間個人が考えられます。いや、ひょっとすると、浅薄な科学者のなかには、人間すら、脳の機能やDNAの情報に帰して、なにか得体の知れない物質のみが変化変転していくことで世界をとらえている人もいるかもしれません。しかし、そのような妄想の世界に生きている人でも、考えている主体自身は否定できないはずです。一刻一刻変化していく世界のなかで、しかし変わらないものがなければ、その変わっていく世界を知る(認識する)存在がなくなります。この世のものは、まったく同じ状態であることは不可能であるにもかかわらず、永遠に変化しない何かがなければ世界の把握など不可能、科学的真理も無になるのです。

 この、変化のなかにあって変化しないなにか、これを実在といい、理念といい、イデアとよんでいます。この真理からみると、科学でさえ、そのような思考が可能なあるひとつの思考状態であり、この真理を否定する唯物論は、自己否定に陥っています。精神なくしては、物質界は存在できないのです。

 一瞬と一瞬、刹那と刹那をむすぶ自己なるもの、自己同一性、これを主体とみると、人間個人に存在する主体性といっても、これを顕現して生きている人はまだ少ないのかもしれません。動物個体には、これが無いと考えられます。我々ヒトも、動物的生存を求めている限り、ほんとうの主体的な人生を歩んでいるとはいいがたいのです。人間にとって、感覚的なもの相対的なものから離れて、自己を確立をすることとは、内なる仏性に目覚めたときでしょうか。

 この自己なるものも、仏教的には「空」、時間的には流転するものなのでしょうが、科学を考える定点としてこれを、「有」るとみたときに、種にも主体性があると考えたのが、今西錦司です。この点で、自然に主体性を考えたシェリングや、自己組織化の進化論と結びついてくるのです。といっても人間のように意識をもって行動しているということまではいってはいません。すこし話を生物の世界に戻しましょう。


種の主体性

                  ------「自己同一性のないところに、主体性を考えることはできないから、自己同一性は主体性にとってきわめて重要ななにものかである。」今西錦司「自然学の提唱」より------

 

 種の主体性とは、種が環境を創り変えてゆくということです(後に主体性について述べた論稿で、環境の影響を断ち切ったとありますが、これは自然選択説のように環境の影響から進化を考える必要は無いという意味と思われます)。この環境とは、ある種の認識可能な世界(環世界)をさすとともに、その種の個体の形態、細胞、代謝経路まで含みます。環世界とは、ユキュスキュル(日本語訳は日高敏隆)の造語で、その種(個体)の感覚器によって、とらえることのできる世界、その生物のいきる世界をさす。アリにとっては、シロアリの体内や火星はその環世界に存在しない対象ですが、仲間のアリのフェロモンのついた道は、特別の意味環境として扱われます。私たちが動植物の環世界を類推できないまま、ヒトの環世界の中でいくら実験しても、ほんとうの生き物の世界を知ることはできないのです。また、種にとっては、その種の個体の身体を形作っている物質も環境になります。この種の視点から見てはじめて唯物論的解釈(今の生理学や分子生物学)が意味をもってくるのです。

 

 そして、その創り変えた環境が、種を創ることになります。つくりかえた形質が、種を限定するのです。変化(進化)してゆく主体は、種である、という今西進化論は、この種の捉え方より導かれます。ラマルクやダーウィンは、あくまでも個体の変異が、全体の変異になると考えていました。ラマルクは、内的感覚を認め個体の主体性を考えていました。今西は、種が主体性を発揮して変化し、同時に個体がそれに従うことを進化と考えました。そして、それぞれの種の主体性の根拠は、地球生命の現れである生物全体社会の永続、発展と、種の共存、調和をめざした、生命全体の主体性におかれます。生物進化は、個体同士、万物の闘争の結果ではなく、生命の法則なのです。生物は、その法則の規範にのっとって生き、進化しているのです。種の主体性の顕現は、次章で述べる生物全体社会の歴史的起源(もともと一つのもの)に由来します。生物の創造性という言葉も使っています。

 

 種の主体性のもと、種社会は独自の社会形態を有し、種個体はその一員として、その範囲内の生活を営みます。その社会は、シマウマやオオカミのように群をつくるもの、クマのように単独生活のもの、繁殖期になると群をつくるものなど、様々な形態をもちますが、どれが適応しているといったものはなく、それぞれがその個体のもつ特質と一致した生態的地位をおさめます。では、この種の主体性を、個体はどのように受け止めているのでしょうか。種社会の内部構造を考えてみます。


帰属性

 ----「個体は自然の手段、種は自然の目的でなければならない。」(西洋哲学史:シュヴェーグラー:シェリングの項)----

 種社会の内部構造をつくる基礎単位は、個体です。個体と細胞の関係性が類比されます。種と個体の関係はどのように考えられているでしょうか。

 「生物の種社会を構成している全ての種個体は、種社会にたいする帰属性をもっている。」とあるように、今西は種個体に、種社会にたいする帰属性を認めています(「同種にたいする帰属性があるとまでは、いっているのではない。」という文章もあるが)。帰属性とは、その種に属することを、なんらかのかたちで認めあっていることをさします。種に対する個体からのフィード・バックにもとれる解釈が成り立ちます。

 認め合いの起源たるものとして、まず性があげられるでしょう。性のコミュニケーションは、同種の認知にほかなりません。視覚、嗅覚などを媒介にして個体は同種の異性配偶者をさがします。植物も、同種の花粉を、雌しべ柱頭上で化学物質により認めます。コミュニケーションは、一方が認めるのではなく、認めあうことで成立します。この互いの種認知が、まず帰属性の現れと見ることができます。晩年の著作を見ると、今西氏はどうも種の主体性を強調し、種への帰属性は懐疑的になっているようだ。サルの群れを観察し、同種の群れ間の闘争から種に対する帰属性は、ないのではないかと考えたらしいが、「もと一つ」の論理の完結からいえば、種への個体の帰属性は考えてよいと思われる。しかし、帰属性とは個体からみた視点であって、すべて種の主体性によって上位概念から説明することも可能であろう。

 また、性以外に親子という関係性も現れてきます。生んだ子供が、自活できる種の場合は、この社会形態をとらないのですが、親と子供の間に、単独生活能力という点からいったら甲乙のあるものは同種の親子のコミュニケーションが現れてきます。それは、アシナガバチのように子供がそのままではエサも採れない種ではもちろん、チョウのように幼虫が孵化後エサを自分でとることができたとしても、食草を探索して卵を生みつけるのは成虫であり、幼虫の育つ環境を嗅覚刺激物質をたよりに探索する成虫の能力は、同種への帰属性とみてよいわけです。成虫個体にしてみれば、別に幼虫の食草の匂いを認める嗅覚細胞などある必要性はないのですが、これは種への帰属性の現れであるとみることができるのです。群れ、家族などの種社会の個体による内部構造も、必ずしも個体に有利にはたらくものではありませんが、群れ全体、家族全体にとって、ひいては種社会全体の秩序にとって要請されるものなのです。

 注:種社会以上の構造として、同位社会という言葉がある。すみわけをもって論じる際に重要な社会構造ではあるが、晩年にはあまりでてこない。属社会、科社会など、種社会以上の階層をあらわす言葉も散見するが、今回はあえて同位社会については論じないでおく。後年、<群れ生活者>を種社会以上のレベルにおくかどうかということも考えている。機会があればまとめてみたい。

 (以後更新します)1999.7