棲みわけと生活の場

 今西錦司の多くの業績のうち、「今西進化論」よりはアカデミックの場にとりあげられ生態学へ影響を与えたものに、「棲みわけ(棲み分け;すみわけ)」理論があります。不当に評価されることもあるのですが、この種の展開された姿を原理として発見したこと自体は、氏の大いなる業績です。

◆現象の観察
 今西氏はもちろん、最初から原理を発見したのではなく、生物が棲みわけている現象を、彼の卒業論文からの研究対象であった水生昆虫のカゲロウ類で観察します。加茂川の石で今西がひっくり返さなかった石はなかった、という挿話ができるほど野外観察に熱心であった彼に、天啓のように「種」が観えた機会がありました。今までずっと見てきていた加茂川に、Epeorus uenoi(ウエノヒラタカゲロウ)、E. curvatulus(ユミモンヒラタカゲロウ)、E. latifolium(エルモンヒラタカゲロウ)、Ecdyonurus yoshidae(シロタニガワカゲロウ)という四種類のヒラタカゲロウの幼虫が、川の流れの速さに応じて生息域を並んで分布していたことを知ります(1932年)。Epeorus属はEcdyonurus属よりも恒に流速の早いところを選び、Epeorusの3種も急流に適応した形態の順に生息域を棲みわけ、 川の流れの早い中央部から、ウエノ、ユミモン、エルモン、シロタニと配列していたのです。

◆原理の発見
 一匹一匹を見れば四種の個々の個体が、隣り合う別の場所に見つかったことに他なりませんが、彼はここで「生物の種というものの生まの姿」を見つけたと語っています。個体のすみわけはダーウィン以来からも発見されておりますが、具体的な種のあり方を、このような形で見つけたと言い切れた生物学者は今までいなかったと思います。今西は、これを生物の原理として全ての生物にもあてはめ、「棲みわけ原理」(『生物社会の論理』)、棲みわけ説と名づけます。四種のカゲロウは、環境要因、たとえば流速とか水温などで生息域を絶対的に限られているわけではないことは、降水量や水温の変動などでこられのパラメータが変動しても、この棲みわけはこの順にかたくなに守られていることから推測されます。棲みわけの境界は、全然外部環境的な要因だけではなく、生き物同士の相互関係、社会の均衡状態の姿です。似通った生態をもてばエサや棲息場所などを求めて対立することは明らかですが、それを一方的に生存競争と見るのではなく、相補的でもあると見るのです。相補的というのはこのヒラタカゲロウ類が、一つの川を一種が独占するのではなく、複数の種がすこしずつ生活の場をかえて、多様性を増した形で共存し、空隙を補完する様に棲息する状態をさします。
 ヒラタカゲロウ類全体でみれば、他種を滅ぼし一種が勝ち残るのではなく、それぞれの持ち場をより多くの種が生活圏を広げ共に棲んでいる姿こそ、成功した姿といえるのではないでしょうか。もともと一つのヒラタカゲロウ種から分かれた仲間であるのですから・・・。

 ひょっとしたら今でこそ自然をこのような姿で観ることが認められるのかもしれません。「ナンバー・ワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリー・ワン」とは、SMAPの『世界に一つだけの花』(作詞:槇原敬之さん)の歌詞ですが、この曲が愛されたのも、多様性の価値と、その場そこにいる君の唯一性を愛する余裕が世界に醸成されている反映かもしれません(しかし、これを書いている私は、ゆとり教育に代表されるような、競争性を廃する形が良いものとは考えません。順位における敗者を見下す傲慢さや、成功者への嫉妬や、敗北で味わう自己憐憫やいいわけなどを、昇華してゆける教育こそ必要で、競争や努力の成果を評価することまで廃してはいけないと思います)。

◆生活の場
 閑話休題。ここで「生活の場」という用語を使いました。これは、前掲『生物社会の論理』の第2章に出てくる言葉ですが、今までこのサイトではとりあげて来ませんでした。すこし日常的な感じのする言葉なので、用語としてはあまりインパクトがなかったのですが、よくここを読むと、今西氏の考えておられた生物観というものが捉えられるように思います(晩年の著書『自然学の展開』に「場の共有から共感へ」という章があり、人間と動物は場を共有していることから、共感することも可能という論をすすめている)。

 生物の分布域というものは、通常人間の視点で表記されます。厳密には簡単にはいきませんが、北緯何度とか、標高何mを限界にするとか、何々島に棲息するといわれますが、これらは全て科学としての客観性を持たせるための表現、学問的表現であり、生き物の視点ではありません。言ってみれば、人間の生活の場のお仕着せです。

 ここで場とは単に空間的な場所だけをさすのではなく、磁場、電場のようなもの、Fieldと英記したほうが感じがでるような内容です。これを考えるには、まず人間の生活の場、あなた個人の生活の場、認識のフィールドというものを考えるのが順序です。今西氏の理論や思想を受容可能な人がいる一方、拒否される方の多い理由は、ここの順序を、丁寧に導く哲学的な段階が希薄なため、ついて来れる人と来れない人が分かれてしまうからだと思います。カントの哲学やライプニッツのモナドの思想がイメージの助けになるのですが、いつかこれを解説することにして、生物の話を続けます。

◆ユクスキュルの環境世界
 生物にとっては、人間が客観的と考えている世界を共有してすんでいるわけではありません。人間の目にはチョウやハチが群飛ぶ草原にみえても、メスのチョウにとっては多くの植物の中の一部幼虫の食草と同種の個体と、エサの在処と敵が認識されているその世界観の中に生き死に、ハチはまたチョウの世界とは異なる内部世界を認識しているに違いありません。それは、チョウの触角がどのような化学成分に応答するかを調べたり、ハチが視覚可能な光線の波長を調べることによって推測されてゆくわけです。棲みわけているヒラタカゲロウにとってもおそらく幼虫の時は、個体数が多い場合には生存競争も当然ありながら、同種他種の区別をせずにエサの採取が可能な範囲で他個体との生活圏をわけて生活していると思われます。同種のものとはエサの取り方も生息最適環境もほぼ一致している(つまり生活の場が一致している)ために、同じエリアに距離を保ちつつ生き、近縁他種のものとは生活の場を多少異にするために、隣り合ったエリア(人間の認識による)で多少重なりつつも別の生活様式で共存することができる。同種を認識するときは成虫になってからで、これは生殖行動によって明らかになる。
 このことは、よくこのサイトでもとりあげているヤコープ・フォン・ユクスキュルも、環境世界(環世界)ということで、生活の場のことを中心にとりあげています。生物の視点で生物の世界を叙述しようとする情熱は、両人に共通しています。ただしユクスキュルの環境世界が主に生物個体の生活の場に限られているのに対し、今西氏は種の生活の場を主にとりあげているところが注目すべき相違点です。

◆生物の視点の生物学−−−一つの自然哲学
 この種の「生活の場」を考えることが、今西氏の種社会と棲みわけを理解する上での大きな足がかりとなります(一方、生物をすべて機械のように扱い感情や精神性など一切認めない考え方のほうが、人間の生活の場(のうちのさらに狭い科学的世界観の場)に限定された人為的なもののように思います)。

 人間の眼には同じ菜の花畑に舞うモンシロチョウと食植性のハモグリバエの、その生活の場は、おそらくほとんど接点がないでしょう。ツマキチョウをモンシロチョウが追いかけることもありますから、両種の生活の場は接点があります。ただし追跡中に視覚的、嗅覚的に同種の認め合いがなされず、種としての生活の場は隔離されています。同種か異種かは、人間が形態学的に区別するものだけではなく、生き物側にとっても生活の場を共有するか否かの違いがあります。また、モンシロチョウの幼虫に寄生するアオムシコマユバチの生活の場にはモンシロチョウの身体は含まれていることになるでしょう。アオムシの体表毛から出るパルミチン酸とステアリン酸に、この寄生バチは反応することから推測できます。
 「棲みわけ」とは、この「生活の場」の棲みわけなのです。「場」を空間的な場所だけに限定できない理由は、同所種のギンヤンマとクロスジギンヤンマが羽化期をずらしているような時間的棲みわけも含むからです。

◆自然のありのままの姿が自然法則の具体化した姿…誤った結論を自然に脅迫させる実験の戒め
 そしてそれぞれの種の生活の場では、その種がもっとも適応しているということは同義反復的にいえることです。ですから、例えば先の4種のヒラタカゲロウを実験室の飼育装置(急流を再現したとしよう)に入れてウエノヒラタカゲロウが生き残ったとしたら、さすが水中生活に適応した形態のウエノイが生存競争の結果淘汰されて残った、というような結論を何十年も前の人なら言ったであろうが、それは実験設定(思考実験も含め)自体がおかしかったのである。生物の世界もナンバーワンではなく、オンリーワンを目指したのだといえます。

 また、同一河川の上流部に棲むイワナと中流部に棲むヤマメの棲みわけは、今西氏がよく棲みわけの例としてあげています。この場合もやはり棲みわけの境界は、水温が大きな要因だとしてもそれのみではなく、両種の生活の場の釣り合いのとれたところにあるといえます。このとき、イワナを取り除いたら、ヤマメは上流部まで生息域を広げるかという問いに今西の棲みわけ理論は解答できないと言う批判をする人がおります。これは生物同士が外部環境のみではなく生活の場の棲みわけであることに対する誤解であり、この問題は、「ヤマメが上流へゆけばイワナとの競争、行かなければ水温などの環境との競争で」、と後追いで解答をあたえる自然選択説であっても同じことのように思います。
 
◆今西進化論−−−生活の場の分離
 さて、今西進化論はこの棲みわけの密度化の過程ともいわれますが、生活の場の分離の起源を問うた、といってもよいでしょう。同じ生活の場を共有していた個体集団が、その生活の場をひろげてゆくうちに、例えば南と北で、それぞれの環境を乗り越えてゆくうちに、もともとの集団とは生活の場を共有できない個体群が出来てくる。これは内側から観た進化論ではあるが、生物側の欲求、主体性というものを考えております。自然選択のような環境の軋轢も、もともと主体性のような運動がない限り軋轢なども考えられないというのが今西氏の考えです。この内側から生物を観る視点、主体性をどのように哲学的に構築し科学としてゆけるかを、今後考えて行きたいと思います。

2004.4
(今西錦司の世界)

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