補講4 今西自然学への方法論


 すこし長くなりますが、『フォト・ドキュメント 今西錦司』(京都大学総合博物館;編)の、[はじめに](筆; 長尾眞)の一部をご紹介させていただきます。

「京都学派の哲学の代表的な人達はいずれも座禅を行ない、あるいはまた浄土教に関心をもち、西洋の学問・基本的な考え方を日本的精神によって乗りこえようとしました。すなわち、身体と精神の合一した世界、主観と客観を統合した世界をめざし・・・・/これはまさに座禅という身体的行為を通じて、あるいは宗教的実践を通じて、人間精神、人間存在の究極を追求しようとしたところから出て来たものと考えられます。」p2.

 西田幾多郎を山頂とする京都学派の影響下に、今西錦司もあります。
 初期の西田哲学は、「純粋経験」という主観客観が分離できない状態を、原理的位置にもちます。私たちは日々感じたり、思ったりすることは、そのまま自分の感覚、主体的な思惟のように受け入れていますが、それはすでに鏡に映したような内容であって、見るものと見られるものが分離した状態であり、ものごとの根源を探求する哲学にとっては、派生的な状態なのです。西田幾多郎は、座禅を日課としていたようですが、「純粋経験」とは、心身脱落した主観客観もない状態、見性、神の愛に包まれる状態、など各言葉のさす深度は別にして、これらの宗教的な幸福な境地をさすと思われます。あるいはギリシャ哲学でいわれる「無知の知」にも相当するかもしれません。これは、実際宗教的な行を努力して経験しなければ、文章だけ読んだだけでは理解できない境地と思われます。

 今西氏の『自然学の展開』にも、「主客未分」「主客合一」「心身脱落」「達観」「大悟一番」という宗教的な悟りの状態が、(自然科学とは別の方法で)自然の認識に必要であるとあります(類縁論考)。ほか「洞察」「直観」など、やはり学問の方法としてはとりいれにくい内容が、今西自然学に不可欠なものとなっております。そして、「そういう意識の状態になったときにですね、「ありがたい」という気持ちになるんです。ありがたい。」、と前述の書籍にあるように、大いなるものとの一体感に宗教的悦楽を感じるのです。西田幾多郎は参禅や深い思索によって、今西錦司は山登りや自然との真摯な向き合いによって、やはりこうした経験を積んでいたのでしょう。

 この「悟り」にもレベルがあります。人生の意義や、論理的な教えを悟ることもあり、大自然に自我が溶け込み消えてゆき、ただおおらかで心地よい精神のみがそこにあるような心境を得ることもあるでしょう。後者の「自然」との一体感とは、アニミズム的悟りに近く、日本古来の宗教にも、インディアンやその他民族宗教にもこうした信仰形態は存在してきたでしょうし、これで多くの人々を指導できるような高邁な悟りではないことは確かでしょう。しかし、「ありがたい」という体験が大切です。

 こうした「もののわかり方」「世界の把握形式」を知ってしまうと、自我をもつ人間が精神力によって自我を滅却することで大いなる大自然と溶け合うことが可能ならば、もとより自我のないとされる生き物たちはこうした自然に常に包まれながら(埋没しながら)生活しているのではないかという類推がされます。「ありがたい」とは物質から導かれるものではなく純粋な「精神」の境位だから、大自然の精神に包摂される形で生き物の精神もひたりながらあるのではないか。こうしたことが考えられるのです。
 生態学や進化学の本当の理解は、一つの真なる実験場であり、理論の唯一の顕現である大自然と向き合うことが必要であり、これが今西自然学への道でもあると思います。

 さて、こうした純粋経験は、「シェルリング(シェリング)の同一 Identitat」でもあると西田幾多郎自身も書かれています。ダーウィニズムは唯物論哲学を前提に学問のような扱いを受けておりますが、これはその前提が間違っています。真の進化論を学問として扱うためには、より真理に即した自然哲学の上に構築されなくてはならないのです。シェリングの自然哲学は、進化を導く根源力学問化するため哲学たりえるでしょう。このシェリングに多大な影響を与えた同時期の哲学者にフィヒテがおります。フィヒテの哲学が、人間を知的直観へ導く力があると考え、「自然哲学への小径」で紹介しております。

 無我観をとおした、全体との一体感(幸福感)が、自然哲学の最初にあるからこそ、自然に対する信頼感や、生き物に対する優しさが出てくるのであって、この境地を原理として自然を探求することで、調和的自然観などの今西錦司の自然観が真実性を帯びてくるのです。

 デカルトーカントがこしらえた、科学の成り立つ3-4次元世界に、自分も埋没しているうちは、自然は無機的に還元されるようにしか見えません。この世界観から自己を解き放つ知性、精神力がなければ今西自然学の全貌は見えてきません。また、パメラ・アスキスさんが指摘するように、日本人の蟲供養や、動物慰霊碑などが、外国人にとって理解しにくいというような、「キリスト教文化ーデカルト的」動物機械論の長所短所を客観的に見ることができなければ、『生物の世界』への理解も表面的なものとなってしますでしょう。
 今西自然学に到る方法論はドイツ観念論でいうところの精神哲学であり、その成果が自然哲学なのだと思います。

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