『動物哲学』

 

 動物哲学においてラマルクが示したことは、1. 生命の条件、2. 動物の多様性の諸原因、3. 動物の感性の物理的原因;すなわち動物の内的感性(こころ)と神経系との関係の考察である。

 一般に進化論として扱われる内容は、2の多様性の説明の部分である。

 3でラマルクが示したかったことは、まず、ある種高等な動物は、外部からの刺激に対する反射のような単純な反応とは別に、動物の「心」「精神」ともいえる内的感性、存在感覚をもっているということである。この感性は、外的な物理的刺激因を生命活動にしている植物や不完全な動物から、内的な刺激因として次第に自由に使用できるように、自然が動物に移し入れたものとして扱われている。これを形而上学に留めず神経系、脳との関連性を叙述した試みが、3の説明部分である。

 動物哲学は、ラマルクが確実と信じた、(人間の)感覚による(動物の)物理的性質と、認識しうる身体的ならびに心的事実(知性でとらえた数学的真理)という感覚と心的事実の二つをたよりに探究した報告結果であり、確実な真実は「自然そのもの」の姿という態度をとっている。

 

 「序論」には、自然への愛情がラマルクの情熱であることがうかがえる。ここではラマルクが心身二元論に立っており、さらに身体的なものと精神的なものは同じ一つのものであり、相互に作用を及ぼしているといった近代二元論の始祖デカルトの哲学に回帰した思想を開陳している。ヘブライズムの影響下、人間以外の生物に対して精神性の付与を完全にこばむ動物機械論とは異なり、さらに極端に人間機械論のように人間の精神性も欠落したこれらの思想とも異なり、ラマルクは生命の探究を身体と精神の両者の考察によるものと支持し、人間を知る周辺材料のためにも、動物の研究をおこなう必要性を述べている。

 ここでラマルクが考えた思考順序は重要である。単純な体制の動物では皆無に近い欲求も増幅により、新たな動物の活動と形態を生み、徐々に動物の体制の複雑化にともなう。しだいに生体外部の刺激力も個体内に移され、感覚能の源泉となり、知性にまでにいたるという自然の歩みを認めている。ここには進化という思想が登場している。

 この真理を体系にするため、やはり動物全体の普遍的、一般的知識から演繹する出立点を求めている。動物哲学の「哲学」はデカルトに依っている。

 第一部

 先にも書いたように、ラマルクは自然こそが教科書であり聖書である立場をとっていたため、それを記述する方法はすべて人為的なものとして宣言することを冒頭に述べている。自然に対峙する立場に、現在でいえば基礎と応用という二つの立場にも触れており、その両者が人為的方策であることを述べている。生物学の基礎である分類体系、たとえば綱、目なども、有効なものであるが人為的に生み出されたもの、恣意的なものであって自然の姿ではない。これは、リンネが雄しべの数によって分類するといった恣意的な方法を批判したものではなく、人間が類似性をどのように認識するかの根元的なことをはらむ問題である。ここでラマルクが分類に採り入れた哲学は、類縁ということであった。

 種

 ラマルクははっきり種の恒常性を打ち倒すことを意図していた。これは改めて強調することはないと思う。自然界に流動性をあたえ、すべてのものは変化してゆくことを明らかに論理立てたのはラマルクであったが、実際に変化説自体を普及した功績はダーウィンであろう。ラマルクは、創造者が個別に不変の生き物をつくったことを否定したが、至高の創造者の意志、法則がはたらいていることは疑わなかった。無限の叡智は、「自然」にその成員をつくる能力を与えたと述べている。自然は、至高の創造者の下部構造であると位置づけたのである。

  ラマルクは種の変化を訴える側として、変種(雑種)が新たな種になることもある(これは彼の論理にはない)など、種の変異性の様々な観察例もあげているが、変異の根源は「自然」に欲求という進化の能力を与えた、至高の創造者の意志に原因を帰している。この論理は、二、三千年も変化しない鳥について、環境が変わらないか適当な場所へ移動できる場合、習性や身体をかえる欲求は起きなかったためと説明できる合理的なものである。

 彼は、分類にあたって、かつてアリストテレスやリンネなどが用いた人為的、恣意的な方法ではない、「類縁」という「自然的」手段をその方法に用いた。哺乳類をその一端とし、滴虫類を不完全なもう一端として14の類を並べた。その連鎖のならび順につれ、器官や体制が漸退されてゆくことを強調した。

 (途中)

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