ダーウィン論2

科学技術は、この世界に身をおきながら、この世界を変える力を持っている。良くも悪くも。

哲学思想は、この地上に身をおきながら、形而上の世界を、彼岸の世界を変える力をもっている。同じく善くも悪くも。

ダーウィンが思想家として扱われる理由も、目に見える世界は何一つ変えず、人々の精神構造を変えてしまったから。それも、おそらく、悪いほうへ。


人々の心が悪くなれば、世界は悪くなる。心が不透明になって、世界に光が差さなくなった。

神様が見ている、ご先祖様が見ているという思想の許で、人はなかなか個別の悪をなすことができない。

こうした自律心、戒律、刑罰によって悪から離れることは、まだ発展余地のある段階かもしれないが大切なこと。

それから、さらに心はより自由でありながら悪を犯さない境地、「心の欲する所に従って、矩を踰えず」の心境こそを求めたい。

なのに進化論や唯物論は、人々の心を不透明にする最大のバカの壁となってしまった。この思想を隠れ蓑にして、人々は楽に悪を犯すようになった。

日本においては現代の203高地
(日本国憲法第20条3項)を落とすことが、この国の人々の心を守るための最速の戦略だ。



もちろんダーウィンも科学的態度、実証的精神を十分もっていた。

自然選択の仮説を科学的に実証するため数多くの例を紹介したのが、育種家などによる人為選択。

しかし、ここにダーウィン論の哲学的欠陥(科学的ではなく・・・)があるのです。

選択とは、主体性をもつもののみに許される。人為選択があるから、自然選択があるとは決していえない。

自然選択論は、トートロジーか、良くて低次元一律アニミズムの様式にしかなっていない。

自然選択は、マックスウェルの魔と同じ理由でありえない。

今西進化論は、人間が人為選択をなす主体性を、生物の種ごとに付与する仮説であって、よほど合理的な理論と思う。


−−−
 熱とは何だろうか。熱=分子の運動、ではない。「
熱が分子の運動に帰着せられるべきことがどんなに疑うところなく証明されているにしても、この種の運動の基礎法則に対するわれわれの立場は、ニュートン以前である。」とは アインシュタインの言。熱を科学するにあたり、分子運動に帰して説明すると、実に見事に現象の説明にあてはまるということに過ぎない。正確に現象を説明していたのであれば、かつての天動説でも同じこと(もちろん分子による熱の説明は天動説ほど間違いではないし、粒子仮説に基づいて分子の実在を探り当てた経緯は立派な科学論だ)。しかし、何故熱が高温から低温へと移るかは、分子の運動では説明がつかない。熱は、高温から低温へと移ることは、基本法則として前提されていなければならない。分子の運動で、高温【分子が高い密度であつまっている状態】から、低温【分子が散らばっている状態】へ、時間とともに移行しその逆はおこらないことは、経験上確かであるが、分子が散らばった状態から、せまい空間領域に集まることは、ニュートン力学のみに依存する限り説明可能なこと、すなわち低温から高温へは移行可能となる。しかし、そのように「自然」にはならないのは、何億の分子をもとの場所へ戻す、ビリヤードのキュー(分子大)と、玉を打つ打点やベクトルを同時に決める膨大な情報が必要ということになり、実際上不可能ということだ。これが「自然」にはエントロピーが減少しない理由。ここで、「情報」、気軽に書いたが、情報とは受け手がいなければまったく価値のないもの。先の場合の角度や、座標値が与えられていても、それを理解できる「人間」がいなければ未来は変わらない。モンシロチョウの翅が紫外線を反射しても、配偶者の可視波長領域に紫外線が含まれていなければそれは情報ではない。しかし逆をいえば、情報が流入すれば、自然は秩序を形成しはじめる。これが生物進化であって、生物は情報を受け取る主体性を持っていなければならない。生物の内的な主体性を階層的に考えることなく一律に否定し、環境のみに進化因を考えるダーウィン論を、今西錦司が批判している理由はここにある。
 自然は「自然」に変化する。エントロピーの法則に由って。しかし進化は「自然」には起らない。環境およびわが身の情報をうけとる主体性が不可欠である。そして、その主体性は、原始的なものから人間へと成長したという順序はとらない。人間の主体性ありてこそ、生き物の中に主体性(今西さんの言葉ではプロトアイデンティティ)を想定するという順序が、自然哲学上のルールと思う。

2004.11

戻る