目的論
 

 蝶の羽は空を飛ぶためにあるのですが、これを学術的に述べるために現代の生物学はメルヘンを仮構しなければいけません。

 むかしむかしそれはまだ昆虫に羽がなかったときのお話です。あるとき何の因果関係もなく「突然」に、背中にわずかな出っ張りをもったものがあらわれました。その小さな突起は、お日様の熱をうけて昆虫の体温をあげ、それを持たない従来の個体に比べて生き残りやすかったということです。その性質は子孫に受け継がれ、そのうちまた少し長い突起を持ったものが現れて、それはそうでないものよりも生き残る確率が高く・・・、こうして「長い時間」をかけて昆虫は羽のように大きな突起をもつようになり、そのうち羽ばたく個体が出来て、空を飛べるようになったのです。

 こうした物語りを難しい数式で翻訳することで賢くなっているのでしょう。

 しかし、これは動物の精神を科学する哲学を人類が持っていない過渡期のことと思います。

 目的論は近代物理学を生まなかったため遠ざけられて以来、生物学もそれに倣ったのです。

 ところが目的論を排除してきた生物学ですが、とりこぼしていることがあります。「生物個体は自分の(遺伝子をもつ)子孫を最大に残そうとする」目的を人間によって与えられているのです。
 こうした思想は、個体にのみアイデンティティを持ち死を恐怖する人間がもつ発想なのですが、なぜか生物もこうしたエゴを一様に押しつけられています。人間特有の発想から解放されておりません。

 生物が多くの仔を産むことは事実です。しかし、これを生態系を維持するための資源を提供するためである、といっても整合性のある理論体系を構築できると思います。これに反発したくなるのは、単に私ちが永遠の生命を信じておらず利他の精神を忘れているだけかもしれません。

 私は目的論を生物学に持ち込むことは賛成ですが、それならもっと正々堂々と合理的な類推を働かせて当てはめるべきです。現代物理学の成果で目的論が復興してきていることは、生物学にとってもよい兆しと思います。

 化石から復元されるどこかぎこちない生物より、現存の生物の方が洗練されて見えるのは、人間精神が美を感じる方向性と生物の進化が同じであるからではないでしょうか。

 自然は次第に精神の刻印を帯びて進化してきました。生物の進化は、生物精神の進化です。
 
 目的論は、応用科学に貢献しませんが、機械論もものごとの反面しか見せません。両者の兼ね合いが、あるいは弁証法的に両者が真実に光をあてることが、技術と人間の知見を深めてゆくものと思います。

 ものごとを知るには知的直観と分析という方法があるように思います。
 いわゆるピーンと来た、というわけのわかり方は、意識、無意識多少の程度はあるにしろ、だれでも判断の材料にしています。しかしそれだけでは科学になりません。教育によって知識として伝えることが難しいのです。
 一方分析して理解されたことは、もっと多くの人に伝達できる利点があります。この両者の兼ね合いが必要です。

 たとえば(唐突ですが)、結婚相手など決めるときも、「この人!!って目が合った瞬間わかったの」という人もいます。しかし、こうした人が、後輩の結婚相談に良いアドバイスができるかというとそうでもないでしょう。
 いろいろ比較検討を重ねて相手を決め幸せな結婚をされた方は、直観で決めた人の「この人以外にない」という信念は少ないかも知れませんが、合理的な結婚の理由を後輩に与えることができるでしょう。

 前者が「この人に会うために生まれてきたの」といえば目的論よりでしょうし、後者が「経済的、社会的信頼、向こうの両親、趣味、思考、性格などを総合した結果、AさんよりBさんのほうがよかったの」といえば合理的、どちらかといえば機械論的なことをいうでしょう。そして、概して「こういう結婚が素晴らしいのよ」っておせっかいに言いたがるのが前者なのです。

 結婚はだいたい一回のことですが、長く自然の理解を深めてゆくには両方の視点が必要です。ただ学術的には分析方法しか真実ではないという意見が常識なので、ここでは直観による自然をありのまま知る方法も大切だと書いているのです。それはまた、幸せな自然との交流の経験から来るおせっかいでもあります。

 また先の例えに戻りましょう。直観型結婚の話を聞くと、私もそう運命の人に巡り会って人に自慢したいという気持ちが少なからず起こるでしょう。そして、そうでもない人にも「ピン」ときたように自分を誤魔化して間違うケースもなきにしもあらずです。これが、19世紀の自然哲学が廃れていった理由と思います。
 直観型結婚をされた方は、それなりに人生と結婚に対してセンスを磨く努力をしていたはずで、その人生観の獲得方法など、手間のかかることを本当は伝授しなくてはならなかったのです。

 話をそろそろ戻しますと、生物に目的論を見出してゆくためには、義務教育でのカリキュラムでは教わらないために、自ら発心をおこして道を求めなければなりません。そのために東洋的な道を伝える師承の教育が必要です。その方法は、努力に比例しますが、なかなか客観的に、実験的にこうしたらわかるというものではないように思います。

 その方法は、あとで書く機会もあるとは思いますが、今は、
 「まず心おだやかに生きよ。
  つぎに心優しく生きよ。
  さらに心深く生きよ。」(参考書籍より)というメッセージを掲げさせていただきたいと思います。
  
 ここでは、生物学に目的論を持ち込む態度が非科学的なものではなく、生命理解のために必要であること。しかし機械論的・還元論的見方も、技術的に必要であるという寛容な態度、目的論と機械論の両者が今後の生物学に必要であるということをみてください。

 生物が合目的的に進化しているという見方をすること、それが自然選択による結果であるというだけではなく、目的をもって進化しているという見方、その目的が一体何であるのかという問いかけが、現代に生きている人間としての倫理観であると思います。