「種」はどこにあるか
 

 いったい「」はどこにあるのでしょうか。1という数を人にどうやって教えればいいのでしょうか。
 もちろん、人差し指をたてたり、ミカンやリンゴを一つ目の前に置いてみたり、鉛筆で数字を書いたりしていろいろ試すでしょう。

 しかし超常現象など信じないというような偏屈な性格の人がいて、その都度、それはただの指ではないか、それはミカンではないか、リンゴではないか、それは鉛筆の炭素がなすられているだけではないか。数なんてどこにあるんだ見せてくれ、といわれたら困ってしまいますね。

 しかし私たちは数を知っています。素直な子供の時に、リンゴやバナナがおいてある絵の中から共通のものを理解して、1とか2とか数をおぼえます。

 こうしたものを知る前提に、当たり前のことかも知れませんが、リンゴを見たときの自分と、バナナを見たときの自分が、同じ人格を持っていることが必要です。リンゴを見たときの私たちの身体を形作っている原子・分子の位置と、続いてバナナを見たときのそれとは全く異なっているはずですが、なぜか両者を同一とする意識があるのです。

 この意識なくして、人は知識を得ることはできないのですが、あまりこの前提を義務教育では取り扱いません。この意識があって、はじめて肉体があるということが感じられるのです。

 この純粋な精神がまずあって、その精神にうつる情報の一部が肉体の五官からくる感覚なのですが、普通は肉体感覚からくる雑音の方が大きすぎて、成長につれてそちらが当たり前になってしまいます。

 これがこのサイトの始めから、物質から精神が発生したとする唯物論は天地の逆さまになった間違いであるといっている理由です。

 物質の中にあるのは、ミカンの物質構成要素であったり、リンゴの物質構成要素であるのみです。共通な「数」自体はそれを導き出す精神の中にあるのです。数の理念は、叡智界、実在界、精神界と呼ばれる物質世界を含む世界にあるのです。その理念がまずあって物質要素との共同作用で理解ができるようになっています。

 生物の「種」も同じです。どのように地上にあるものをつかって定義しようとしても、無理が生じます。E.マイヤなどが生物学的種概念など、難しい定義をほどこしていますが、現象をみてこれが種であるという定義は、「数」を目に見えるもので定義するように困難なことです。地上に現存している目に見えるある種の全個体集団は、今西錦司が名付けたように「種社会」であって、「種」は精神世界のなかに存在しています。

 ですから今西錦司氏が種を構成する個体のアイデンティティの在処を見当付けていったときに、ユングのいう内界、精神界という言葉でピンときたといっているのです。
 
 ほんとうは物質もすべて精神界に包含されているのですが、それでは科学にならないので、肉体を通して得られる共通項を取り出して、相互理解をしているのが科学なのです。その世界の出来事があまりにも発展したために、近代科学法則が通用する世界のみが世界の全てと思っている人が多いということです。物質の確かさは、精神が物質も存在すると信じている確かさなのです。

 精神界の中の「種」が、現象界にあらわれて生殖を営み、種をはこんでいるのが個体であるので、種が変われば、私たちが目にしている種の個体も変わります。

 しかし種は変化の調整原理です。日々成長し老化し変わりゆく現象界の個体をつなぎ止めている原理でもあり、生態系のニッチェを守る調整原理です。種が変わらないうちは、個体は生殖によって種を維持する自分と似た子孫を作り続けますし、ある種が生態系の一部門を担当している間は殺虫剤などにさらされ生存の危機を迎えても、種を変えることはありません。個体のあらゆる可能性を駆使して抵抗性をつけ遺伝子を変えてでも種を守ります。

 遺伝子は個体にとっても下位存在であり種にとってはなおさらですが、一度逆さまになった唯物論正統進化論では、個体は遺伝子を乗せる機械にまで落ちぶれています。西洋人は、遺伝子型と表現型を明確に分けて考えます。それはおそらくギリシャ以来の形相と質料との区別の名残でしょうが、DNAは物質でありイデアではありません。永遠を指向しているのは「種」であって遺伝子ではないのですが、ちょっとわなにはまっているようです。

 この種ももとはわずかな種数より始まったはずですが、地球環境への適合、種があらたな種のニッチェを開拓し、多くの種へと分岐してゆきました。この種の歴史は、精神界と現象界の化石にしか残っていません。
 人間精神に映る生命の実体と進化の歴史を静かにながめることはシェリング自然哲学の使命と思います。

 ここでは数と同じように「種」も精神世界の住人であることをみてください。そして本当は物質を含めた全てが精神世界の中にあるということです。

 しかしそれは個人だけの精神世界ではありません。人類共通の心の法則の働いている世界です。人に愛を与えれば与えられ、人を裁けば自分が裁かれる明確な法則の働く世界ですから、この世界は何を考えても責任を負わなくていいという間違った自由の世界ではないことは述べておきたいと思います。

2001.11