みんなでパイを焼いてきた
 

 今西錦司がいう調和的進化論、棲みわけの密度化とは、簡単にいってしまえば「みんなでパイを焼いてきた」ということにつきるのではないでしょうか。

 その前提は、全ての生命が「一」なるものから生まれたとする生命観であり、その目には見えない歴史的なつながりが共時性をもって現代でも働いているため種同士は主体的に協調しているというのです。

 生物個体のみが実在として自然を見ると、弱肉強食の生存競争、生き残るための奮闘努力の世界しか見えません。被害妄想気味の方には、オスとメスの間にさえ虚虚実実の戦いが見えるようです。

 しかしその見方は、あなたが人間をそのようにしか見ていないだけなのです。その思考枠からしかのぞけない世界を、生物界と思っていたのです。

 そうした小さな眼鏡をはずしたとき、私たちはなんと素晴らしいものを今まで見ないで生きてきたのかと愕然とすることでしょう。

 自然は、種が調和し憩っている世界です。もちろん目には見えません。目に見えるのはやはりヘビがカエルを呑み、冬がスズメを永眠させる世界なのですが、しかし生命を運ぶおおらかで慈母心にみちた世界なのです。

 噴火によってある島が太平洋上にでき、いくつかの生物がすみついて循環する生態系ができあがったとしましょう。その時点の種数が50としましょう。それで、完全な循環ができあがっていたら、本当なら生物の進化はなくても良いのです。
 しかし進化は結果ではなく法則です。太陽光が降り注ぎ、様々に繁殖した社会では、まず植物社会に余剰エネルギーが蓄積されます。この島に樹木がなければ、草本植物も樹木化して多様化しより多くの種を受け入れるニッチが生まれます。様々な植物の繁殖様式によって、それを食べる一次消費者のニッチェが大きく開かれるのです。そこに余剰エネルギーが蓄積されれば、さらに高次の消費者を分岐させるエネルギーの余沢を得るでしょう。トリのクチバシを変化させる程度の・・・。
 またさらに猛禽類などのさらに高次の消費者がたどりついたとき、そこはより多様な種が憩える生態系へと変化します。

 ここに自然選択は、進化のスピードにとって影響を与えるものとはなり得ますが、進化自体は宇宙が進化しているという原則から来ているのです。

 今の物語りのどこに宇宙が関係しているのか。それは太陽なのですが、これについてはまた触れる機会もあるでしょう。

 種とか生態系とか生命とは、個体より高次の(五官では把握できない)精神的認識力でものごとをみると、自然界の進化の歴史は、みんなで協力して他種とか他の生態系の構成メンバーの住む領域を増やし、生命の多様さを伝え続けてきたのものと理解することができるのです。

 これは一つのものの見方です。目の前の患者を外科手術をほどこして救ったり、遺伝子組替え技術を駆使するときには、生物機械論が有効です。しかし、それでは生命とか進化とかはわからないでしょう。

 ここでは、進化とは種が協調しながらその多様性を増やしてきた歴史である、ということをみてください。最初は数種しか棲めなかった地球環境を、みんなで豊かな自然にしてきた歴史は、けして偶然と闘争と破壊の世界ではないということです。

 本当にものを制作した人であるなら、造形に創造性が必要であることは自明です。ノーベル賞を受賞するような論文も、偶然にニューロンが活性化され、上腕が動いて書き上げたものであるなら評価など必要ありません。
 自然の作品を味わう雅量がもとめられているのです。

 日本の歌謡曲だって進化していますが、それはアーチストがいるからです。時々革命的な天才が現れ、構造的な革新を巻き起こし、それが模倣され進化しています。それを譜面に落として「音符やコードは今も昔も変わってないね」というのは、ものを創るよりも簡単なことです。
 生物だって進化しています。それはアーチストがいるからです。

2001.11