進化の法則
 
 

 明治時代に日本に進化論が紹介されたとき、ある欧米人が、日本人が進化論の受容に寛容であることを驚いたそうです。

 それはある意味、自然に対する考え方が違っているので当然という見方も出来ます。

 西洋文明には、生物は創造主から創られた完成品で不変である(ユダヤ-キリスト教)、あるいは、種=エイドス=イデアは不変である(ギリシャ哲学)という考えかたが、潜在的な思考枠として根強くあったのでしょう。

 そのイデアにあこがれて個体は生きてゆきますが、個体は成長し、老化し、死すべきものであるため、個体は生殖によって種族を残しイデアを伝える個体を創り続けようとします。個体は変わりゆくものですが、種=イデアは、変わらないものです。

 しかし近代、博物学がさかんとなり、化石や生物について知るところが増えてゆきました。この地球にはあまりにも多くの種が生存している、その種もどうやら変化しているのではないか、ということがだんだん考えられるようになったのです。

 一方、東洋世界、とくに仏教では万象万物が「生々流転の法則」下にあり、生物が変化すること自体は、驚くようなものではなかったのでしょう。

 諸行無常、すべてが変わってゆくことを前提にした文明をもっていれば、ダーウィンも受難をおそれたり、無理な理論をたてることはなかったのです。

 私たちが認識している全ては主観的世界でありますが、各人に共通なものはないかと考え、絶対空間と絶対時間を想定しました。(現代物理によってこの絶対性は崩れましたが、)この共通項を土台として、近代科学が発達してきたのです。現代では光速に絶対性が与えられています。

 しかし、各個人が各自の主観のなかにいながら時空間がどうして共通であるとみなされるのかと考えてゆくと、どうしても絶対者、仏、神といった万人にとって「一」なるものが不可欠で、そこから逆に理性や自然の共通性が導かれます。

 時空間を共通と想定したフィールド内の科学だけでは、たとえば人間や歴史はわからないのは当然です。科学で全てがわかるくらいなら、哲学・歴史学・人文学はいらないでしょう。

 自然科学を通した視点では、イエス・キリストもその隣で十字架にかかった罪人もそんなには変わらないでしょう。身長、体重、血圧、血糖値から様々な身体的要素、たんぱく質の種類、遺伝子の塩基組成まで、大きな違いはないはずです。

 しかし一方からは世界宗教がうまれ、もう一人は聖書での脇役にしかすぎません。この影響力、愛の量は比べものにならないくらい異なっています。イエスはどれだけ多くの人生をうるおしたでしょうか。

 この精神の奥にあるものは、現代科学の尺度でははかれません。人間、生命、歴史というものはそうしたものと思います。生命、生物の歴史にも、こうした精神性がはたらいていたとしたら、やはり現代の科学の枠では明らかにされない部分があるのです。人間の歴史には、客観的には決して計れない要素がありますが、生物には、原生動物から哺乳類まで均等にそうした類推を禁止することはかえって不自然です。

 この部分にどのように客観性を与えてゆくかといえば、別の尺度をもちこむ哲学が必要です。

 そこで生物学に目的論を仮定するカントの哲学を、より積極的に、精神が目的をもって自然を生み出し、生み出しつつあるとするシェリングの自然哲学を考えてみたいと思います。

 シェリング自然哲学の前提には、自己を無とする人間精神絶対者が必要です。その人間精神の由来まで導き出すには、たぶんヘーゲル哲学を勉強する必要があると思いますが、ここでは科学として人間としての定点を持ったうえで生物を扱うのためシェリング哲学を考えてみました。
 

 宇宙は、絶対者から始まります。絶対者は、自己を顕します。これが宇宙の始まりです。しかし、それと同時に創られた質をもつ自己(神のうちの自然)と絶対者(決して相対にならない)とは、相対関係におちいり、その矛盾の解消のため、創られたものを自己に引き入れます。

 しかし自己を引き入れた絶対者はもう初元のものとはちがう精神です。時間を超越したところの絶対者と、その相対精神は、もとなる「一」を目指して、永遠の分離-結合振動を繰り返します。創られたもの=自然は、絶対者との関係を常に受け続けるために、次第に絶対者に近づく精神性を身につけてゆきます。

 自然は、絶対者を目的として運動をするものとなりました。

 ここに能産的自然(精神としての自然)所産的自然(自然となった精神)が、自然を流動的なものとして変化させてゆくものとして考えられました。

 能産的自然は、さえぎるものがなければ無限に拡散してゆく絶対者の力であり、所産的自然は、質を持ち絶対者へ戻ろうとする求心力です。

 シェリング哲学では、すでに、自然は前提として「変化するもの」として考えられています。

 生物の進化は、偶然の変化と淘汰による結果ではなく、宇宙が進化していることと同一の根本の原則です。

 その進化が、他を滅ぼすような独善的なものでないように調整するのが、もと一つのものから創られたという調整的原理です。

 無限に発展する力と、結びつけあう力によって、宇宙で様々な元素が進化し、星雲ができ、恒星ができ、惑星が創られ、生物が進化しているのです。

 進化は、生物だけではなく宇宙全体の法則なのですが、19世紀の西洋にはそれを認める人と認めない人がいたのです。ダーウィンの功績は「種」でさえも変化すると啓蒙したことにありますが、唯物論下でそれをしようとして機械論的な選択と偶然論を持ち出さざるを得なかったことに栄光と影がありました

 諸行無常が真理です。全てが変化の過程にあります。しかし無秩序にはならず進化する生物の調整原理が「種」であったり、自然淘汰であったりするのです。そして、より合目的的な姿へとその種も変化するものなのです。

 太陽熱や地熱、太陽や月、地球の重力や様々な波長の電磁波によって、エネルギーをうけながら変化しないことはありえません。池田清彦氏も何かの書籍で、ダーウィンの功績は「生物は進化する」ということを発見したことと喝破していましたが、ここで進化は、物理学における「慣性(惰性)の法則」と等価値の現象と定義されてよいことを書いておきたいと思います。

 ここでは進化が結果ではなく、原理であることをみてください。

2001.11