生命の神秘
 

 昨年(2000年)車を運転中、兄弟スズメにつられて道に飛び出してきた若いスズメをはねてしまったことがあり、その晩『祈願文@』をあげて冥福を祈りました。その翌週のことです。学校へ行く途中の歩道に、巣立ったばかりでうまく飛べないスズメがいたので、しゃがんで手を差し出しました。すると最初は戸惑っていたスズメですが、すぐ手のひらにのってくれて、肩や首でしばらくじゃれてくれました。口を突き出せば、嘴でつつきます。野生のスズメもこうしたことをするのでしょうか。
 近くの梢にそのスズメの兄弟か心配していたようなので木の上に戻したのですが、とても嬉しい経験でした。
 
 許されたのかな?という感じは持ちました。ところで日本のスズメは、過去害鳥とされて殺されたり今でも焼き鳥にされるためか、人との間の「飛び立ち距離」はヨーロッパのスズメにくらべ長いようです。これは飛び立ち距離の長いスズメが生き残り選抜されそのような遺伝子を持つスズメしか日本にはいなくなったのか、スズメの心に薫習された記憶がそうさせるのか、どっちとも否定できない考え方です。

 ところが、やはり私にはあたたかい生き物の心があるということを確信しています。

 前頁までで準備してきたものは、唯物論・機械論が一つのものの見方であるに過ぎず、真理ではないですよ、ということで終始していたかも知れません。

 全てのものが変化変転し、過ぎ去ってゆきます。そのなかに全ての生物ももちろん含まれています。
 生物の進化自体を信じない人たちはいまだにおりますが、そうしたことに関わらず、全てのものを流し去る真実の力があるのです。

 しかしビッグバンの光が散って飛び去って消えてしまわずに、星雲や星を創っているように、何故生物界にも、秩序と階層ができ調和された世界が広がっているのかを考えると、一様に流れ去って無目的なカオスへと変転していないことがわかります。

 その原因が、突然変異という偶然論と自然選択のみであると主張するなら、どれだけ自然の知性をなめているのかということになります。

 デカルトもカントも、神を信じていました。神なき彼らの哲学は独我論・唯我論になってしまいます。シェリングも神から宇宙が生まれ、宇宙は主観性に導かれて人間の知性に到る自然哲学を構築しました。

 仏神から宇宙や生物が創られたことと、進化論は矛盾しません。
 エネルギーとして創られた星の生命が生物環境を創り、生物進化の法則も創造し育んでいる。私は、神が一度創った生物をそのままにするよりも、進化し発展する喜びを与える神の方が慈悲深い全能者ではないかと思います。

 銀河系も目に見える質量の何倍もの目に見えない何か(ダーク・マター)がないと飛び散ってしまうそうで、そうした目に見えない結びつける力はこのあたりに遍満しているエネルギーであるそうです。この空間も、磁石をまわせばなぜか力をかけている方向と垂直に電場が形成されます(なぜ89°ではないのか知っている人いますか?)。

 こうしたことに神秘を感じる心があれば、生物の営みやかたち、色彩にも神秘を感じることができると思います。現代物理が示すこの宇宙を支える奇跡的な数値に神秘を感じて、人間原理が出てくることは当然のように思います。これは科学そのものではないかも知れませんが、科学する心なのです。人間原理を科学から抹殺するならば、同じ理由でダーウィニズムも一緒に葬られる哲学的基盤にあります。人間原理を科学と融合させる試みが容認されるのであれば、ダーウィニズムを包含するより説明範囲の広い自然哲学が必要となります。

 生気論が非難され続ける理由は、生物個体の中に生命を探究しようとして失敗しているからだと思います。
 生命の神秘は、まず人間の心の中の神秘に目を向けなくてはならないのかも知れません。そこに全てがあるのかも知れません。

 科学者でもあり神学者でもあるスウェーデンボルグ(1688〜1772)の宇宙観↑には、時空間を超越した存在である霊太陽というエネルギーの根元が存在します。私たちが普通目にしている3次元の太陽は、この霊太陽の現象化した部分です。
 シェリング哲学に無理やり翻訳すると、能産的自然所産的自然に相当し、この二つの力が自然を流動させていることとなります。科学の言葉で想定すれば、重力場や電磁場なども含まれるものでしょう。

 心の目で観るとき、こうした光を体験する人は増えてくるでしょう。私たちは創造するエネルギーとしての目に見えない光に、心を開く準備が必要なのかもしれません。
 そうした光に巡り会ったとき、人は変わります。なぜかは分かりませんが導きの意志を感じるからです。これが動植物の上にも降り注いでいるものと思うのです。
 

2001.11